2018年1月31日(水) 34月命日
 今日は妻の34回目月命日です。妻(遺骨)の居る一心寺お参りに行くために昨夜は午前2時過ぎに就寝して10時半には起床しようと思っていましたが5時過ぎにトイレに行ってから寝付けず,リアルな仕事の悪夢で眠った気がありません。次に7時半頃トイレに行ったのですが,また寝つけずに眠ったと思ったら2回目のリアルな仕事の夢です。夢の中で必死に回路を考えているので寝た気がせず10時半には起床できませんでした。無理をすれば起床は出来たのですが,今日も寒いので結局弱気な自分に負けて駄目でした。
 
 11時20分過ぎには起床したのですが,朝食を摂って出かけるとお寺には妻の亡くなった時間の13:12(拘りの時間)には間に合わなないので諦めて13時前に自宅を出ることにしました。
 昨夜からは,今日は何を着て行こうと考えたのですが,妻が見たことが無いもう新しい衣服がありません。そこで,出来るだけ妻が好きだったDAKSの衣服を着ることにしました。
 先ず,今日も寒いのでDAKSのダウンコートを上から着ます。これは何年前か忘れましたが妻が買ってくれた思い出のコートであり,私の衣類の中では最高級となりますが,痩せてしまった私には大きすぎてブカブカになり妻が亡くなった後にクリーニングに出してそれから着ていませんでした。
 私はこのコートを着て妻が入院中の病院へ自転車で通いました。あるとき,妻の体調が悪く精神的にも苛立っていた時に私がコートを着たまま病室で妻を見舞っていると「そんなごついコートを着ていたら目障りや。」と叱られたのです。がんの病は治療が厳しくて怒りっぽくなる時なのでした。

 シャツは私が購入したDAKSの黒地に白い柄が入ったカジュアルシャツを着て,その上から家内が買ってくれていたDAKSの黒いセータを着ました。ズボンは私が購入したイルファーロのグリーン系(妻が好きだった色)をはきました。
 妻が亡くなってから,遺品整理をしていると妻のベッドの下から袋に入れられたままのDAKSのズボンが出てきました。妻は私のためにズボンを買ってくれていたのですが,裾上げをする必要がありベッドの下に入れたまま忘れてしまっていたのでしょう。見つけた時の私には,そのズボンは大きすぎた(痩せて胴回り15cmほど細くなった)のと,精神的に狂っていたので廃棄してしまいました。今の私には,DAKSのズボンは高価なので買えません。

 後は,靴下,ベルト,帽子もDAKSとして自宅を出て,一心寺到着は13:45となりました。寒い平日なので一心寺の参拝者は少なかったです。
 いつもの様に,一番太い大きな和ろうそくと線香を購入して,ろうそくに戒名”安祥貞淑大姉”と妻の俗名まで書きました。俗名を書く機会は無くなってしまったので,私の拘りで懐かしい妻の名も書きたいのです。

 ろうそくと線香を立てて納骨堂でお賽銭を入れて数珠を手に合掌します。
 そして,いつもの様に心の中で「来たで。」,「今日の服は,あんたが買うてくれていたコートやセータを着てきたんや。」,「見覚えがあるやろ。」と妻(お骨仏・・・新しいので綺麗です。)に話しかけていると,勝手に目頭が熱くなりました。ええ歳をした爺さんが・・・まだまだ情けないですね。

 一心寺からの帰路で地下鉄を天満で下車して,焼き菓子店に寄ってお供え用の菓子を入しました。そして,自宅の最寄の駅に近いたこ焼き屋でたこ焼きを買って帰宅です。たこ焼きは,私にはタンパクが多く頻繁には食べられないのですが。
 
 自宅に着くと直ぐにお茶を入れて,冷めないうちに買ってきたたこ焼きと一緒に妻に供えました。「熱いから,注意して食べてや。」と言ったのは,自宅療養中の妻に冷たいたこ焼きを上げて叱られた覚えがあるからです。
 そして,夕食は妻の最期の食事であったお粥を炊いて,ちりめん山椒をまぶして供えました。

 たこ焼きは熱くてとろける味が良い月命日に妻に供えし
2018年1月30日(火) 痩せた
 今日も睡眠障害で眠たかったのですが,多少無理をしてもプールに行って運動しようと思いました。散歩とは違う筋肉を使うのでストレッチ替わりです。
 13:30に自宅を出てスポーツジムに行き,プールに入る前に体重を計ると57.6kg最低記録を更新しました。前回プールで体重を計ったのは12月5日であり,その時は58.7kgとなっていました。ここ2年間の体重は58~60kgの間なので少し減っていますが,58kgを痩せる最低ラインと考えていたのです。妻が元気なら未だに75kgはあったと思います。
 今年に入ってから寝不足と寒いので体調が悪く食欲もなかったのでもっと痩せていると思いましたが。

 プールでは話をする人(男性)が一人で「お久しぶりです。」と言われ,女性はおばちゃん(50歳ぐらい)が会釈してくれるだけで知らない人が増えていました。私はスポーツジムの会員となって今年で17年目となり,妻を通じての顔見知りが多かったのですが,高齢のためか減っていきました。私一人では不愛想なので,話す人は居ません。
 いつものコースをこなしましたが,約2ケ月振りのアクアビクス(45分)ではへばりました。ジャグジー,スチームサウナに入って体を温めてプールを出ましたが,今日も寒いのです。

 帰路で整形外科医院に寄りましたが,受け付け開始(16:15)の1分後だったのに診察番号は11番と待合室が一杯でした。私は帰宅してから,夕食の用意,食事,後片付け,風呂掃除,そして日記作成とすることが沢山あるので,人が多いとイライラします。
 自分で家事全てを行うようになり,間もなく3年となります。それまで水仕事などしたことが無く,冬場には風呂掃除の水が冷たく,食器洗いで手が荒れるのでハンドクリームが必需品でしたが,3年目の今年は手の皮が強くなったので手荒れが少なくなりました。
 こんなことは自慢にならず,絶対に私は家事に向いていないと未だに思っています。誰もしてくれないので,”しゃあない”からしているだけです。

 家事終えた荒れたわが手をじっと見て3年経てば強くなりしか
2018年1月29日(月) やはり睡眠障害
 今年に入ってから理由が不明なのですが酷い睡眠障害で,寝つきが悪く,眠りが浅いのです。我慢が出来ず,26日にメンタルクリニック(心療内科)に行って安定剤と,睡眠導入剤を処方して貰いました。昨夜は早く?寝ようと安定剤と睡眠導入剤を服用して午前1時半過ぎに就寝しました。しかし,夜間頻尿は治らないので3時半過ぎにトイレに行きました。

 トイレから戻ったのですが体が冷えてしまいエアコンを入れて眠ろうとしたのですが寝付けずに諦めて4時過ぎにテレビをつけて早朝のニュース番組を観ました。そして,結局6時半頃に今まで服用していた睡眠導入剤を服用して何とか寝付きました。
 これまで真夜中に覚醒して寝付けずテレビを観た経験はなく,睡眠障害が酷くなってきました。近所の内科医院では「歳のせい。」と言われ,自然に任せれば良いと言われるのですが眠れないのは辛いです。頻繁(2~3時間毎)にトイレに行くから眠りが浅くなるのは,一般的な老人病前立腺肥大が原因で泌尿器科から薬を処方されているのですが。私はいろんな持病があり,これも一人での生活意欲低下の一因となっています。(65歳を超えた男性なら,大なり小なり頻尿に悩むのです。)

 9時半頃にトイレに起きて,また寝つきが悪いのですが眠って次に目覚めたのは12時を過ぎていました。寝不足で頭が痛いのですが,今日は意地でも掃除をしてやろうと朝食(昼食)後に布団掃除と各部屋の掃除を行いました。しかし,体調が悪く直ぐに疲れるので掃除は20分が限度で,休憩しながら15時過ぎに終えました。
 それから,本当は昨日行く予定だったスーパーに出かけ,31日妻の月命日なのでお花やお供え用の果物,私用のヨーグルトやおかずを購入して本日の予定終了です。
 いろんな病気を持った老人の無意義な一人暮らしはこんなものでしょうか。

 野鳥情報は少し頂いているのですが寒いのと,あまり魅力がないので出かける気がしません。また,この様な睡眠障害だったら出かけたくても撮影に出かけられません。何とかしたいのですが,私は神経質すぎるのだと思います。もし,生まれ変わったらケセラセラの楽観的で,強気な性格になりたいです。そして,私より先に逝かない女性と結婚をしたいです。
2018年1月28日(日) 不思議な出来事
 毎晩早く(午前0時過ぎには)寝ようと思っていますが眠たくならないので,テレビの深夜放送を観ます。また,習慣となってしまったのか早朝のニュースがBS放送で午前3時から始まるので,それを観てしまい眠るのは午前3時半を過ぎます。
 眠る30分ほど前に睡眠導入剤を服用するのですが,昨夜はメンタルクリニックで処方された”睡眠前に”と言う安定剤を午前2時頃に服用しました。

 そしてテレビを観ていると眠くなり午前2時45分ぐらいの記憶はあるのですが,いつの間にかテレビをつけたまま寝てしまい気が付くと午前3時半を過ぎていたのでテレビを消して寝ました。そして,夢の記憶が無く目覚めたのは7時過ぎでありトイレに行きました。しかし,今日も大阪は氷点下以下の冷え込みで寒くて目覚めてしまいました。
 完全に寝不足なので寝付こうと思うのですが眠られず,睡眠導入剤を飲もうか等色々と考えていたら突然横揺れが始まりました。わぁ!地震だと身構えて布団を被りました。私の部屋には箪笥などの倒れてくる物がないので(実際は40インチのテレビを固定していないので倒れてくるが),揺れに耐えているとどうもおかしいのです。
 いつもの地震ならユラ,ユラ振動の周期が遅いのですが今朝はグラグラと横揺れの早い周期の振動で揺れが治まらないのです。
 このような地震ならテレビで地震速報が流れているだろうと,リモコンでテレビをつけますが映らないのです。それではと,揺れに耐えながら部屋の電気を点けようとしますがペンダントのスイッチコードが見つからないのです。
 起きようとするのですが,金縛りにあったように体が動かず,恐怖から大声を上げようとするのですが声も出ません。必死になってもがくのですが,揺れを感じるだけで体が動きません。

 その内に,枕元で人の感じがしたので”お化け”が出たと,また恐怖から大声を上げようとしますが声が出ません。そこで,枕元の人をじっくり見ると見るとそれは妻だったのです。私は地震が危険で寒いだろうと,「早よ,布団に入り。」と言うと,妻が入ってきました。
 3年振りに出合った,横に居る妻は白髪になってしまった短髪で眼鏡をかけており,目はクリット妻そのものでした。私は懐かしさから「久しぶりやな。」と言った瞬間ぐらいで目覚めました。

 以上の出来事は夢だったのかと枕元の時計(温度計付きのディジタル)を見ると9時過ぎで,室温は16.5℃と自室にしては低いのです。(外気は1.1℃)
 寒いのでエアコンを入れると,いつもなら1分ほどで温風が出るのですが,今日は冷たい風しか出ません。スイッチを誤って”冷房”にセットしたのかとリモコンを見ると”暖房”になっていました。不思議な現象です。そこで,温度設定を27℃まで上げるとやっと温風が出てきましたが,いつもの様な暖かさではありませんでした。
 
 もっと寝ようとしたのですが,恐怖の夢と妻と出逢った興奮から心拍数が上がり精神状態が正常じゃなくなったので眠られません。そこで,もう起床して朝食を摂ろうと居間を通って恐る恐る妻の写真を見て”白髪の短髪で眼鏡をかけていた”ら私は完全に発狂したと思うのですが,妻はこれまでと同じ穏やかな顔で私を見つめていました。良かった!!!

 朝食後にテレビ(NHKの討論番組)を観ていたのですが,寝不足から頭痛がして眠たいので,もう一度寝ようとしました。しかし,精神状態の興奮が治まらず眠れないので12時前に精神安定剤を服用してテレビをつけたまま目をつぶりました。
 半分テレビの音声を聞きながら,意識不明(寝ている?)になりながらやっと15時前に起床しました。
 妻が健在な時も夜中や明け方に恐怖の夢を見て叫んだ記憶があり,妻からも「大きな声で叫んでいたで。」と言われる時が時々ありました。私は,根っからの小心者ですが,今朝のような地震と幽霊?の夢は初めてです。そして,夢と現実の区別ができなくなったようです。
 妻が亡くなってから,この手の恐怖の夢は見なくなったのですが,とうとう私は寂しさと不安から精神状態が狂ったのでしょうか。

 今日も脱衣場に妻が使用していた温風機を置いて16時半から入浴しました。そして,今夜も”睡眠前に”と言う安定剤を服用しますが,再び幻覚?が現れたら薬の服用を止めます。私は性格と同じで,特異体質なので薬が効かなかったり効きすぎたりします。

 夢枕出逢いし妻は白髪で3年の時感じさせたり
 私の記憶に残っている66歳で亡くなった時の妻は白髪があったものの真っ白ではなく亡くなる3日前に病室に美容師を呼んで短髪にしてもらったのですが,今朝出逢った妻の頭髪は真っ白になっており3年間の時の流れを感じました。私もすっかり,老人となりました。
 なお,緩和病棟の病室で妻が短髪にしてもらったのは”旅立つ準備”だったのだろうと今では思っています。その時の詳細は気まぐれ日記の2015年3月28日(リンク)です。
2018年1月27日(土) 眠れた?
 昨日は43回目の結婚記念日であり,妻と一緒に夕食を摂りたくて居間での食事でした。あの時(3年前の昨日)の妻の様子が走馬灯のように脳裏を駆け巡り,時間が苦しかった時期に戻ってしまいました。その後,当時のこの日記を読み直し妻の症状や私の精神状態を思い出して悲しくなりました。今の私には耐えることができない状況でした。
 最後となった結婚記念日はルビー婚式であり,冷たい雨の中を食事に出かけたこと。
 吹雪の中を妻が入院中の病院に自転車を走らせたこと。
 満開の桜を観ることができず,私の顔を見つめながら手を握っていた妻が息を引き取ったこと。そして,その妻の眼からは涙が零れていたこと。
 自宅(マンション)の庭の桜は満開となっていたが,妻は寝台車に乗せられて無言の帰宅をしたこと

   ドラマや映画では”お涙ちょうだい”に演出されたと思われる光景が日記では残酷にも真実で書かれているのです。

 記憶は時間と共に薄れて行き(特に老人には),人は美化された記憶が残るのです。その記憶は,自分の都合の良いように誇張される場合が多いので,私は回顧録エッセイがすべて真実であるとは思はないのです。
 これは当たり前の心情で,誰も苦しい・悲しい事実を思い出したくないのですが日記にはそれが残っているのです。

 旅行の想い出にもみられるように,綺麗な風景だけが記憶に残るのです。私は高校時代に初めて行った霧ヶ峰高原の美しさ(黒い大地の一面に黄色いニッコウキスゲが咲き乱れていて,こんな場所が日本にあるのだと感動しました。)が忘れられず,大学時代に再度訪れてがっかりしたのを覚えています。その後も,社会人となってから,或は野鳥撮影でも訪れましたが,もう高校時代に感激した霧ヶ峰はありませんでした。
 また,我が家から自転車で10分足らずの鶴見緑地公園に秋に始めて出かけて,風車の丘のコスモスが満開だったので”この世の景観”とは思えずに感動したのですが,その後何度も同じ季節に訪れましたが再び感動には逢えません。
 これは,人間の記憶回路に綺麗な部分だけを切り取って覚えているからであり,写真はその際たる記憶です。汚い部分は避けて撮影しますし,風車の丘での撮影で人が邪魔になったらレッタチで消えてもらいます。

 昨夜は色んなことを考えながら,いつもの様に午前3時過ぎに就寝しました。そして,クリニックで処方された”睡眠前に”と言う安定剤を服用しました。その薬の効果なのでしょうか,夢を見た記憶が無く8時前にトイレに行きました。その後も,余り夢を見ずに11時前まで眠りました。
 まだまだ眠り足らない気分なのですが朝食を摂り,その後横になってテレビを観ていたら眠くて13時過ぎから居眠りばかりです。やっと起床する気になったのは15時を過ぎており,今日は掃除をしようと思っていた時間がなくなりました。
 処方された薬の副作用として,眠気が取れにくいとされていましたが,1回しか服用していないので睡眠障害(悪夢)に効果があるのか判りません。

 亡き人を美化してしのぶは人の常されど日記は真実残す
2018年1月26日(金) 43回目結婚記念日
 今日は43回目結婚記念日です。記念すべき結婚40年のルビー婚式は妻ががすい臓がんに侵されルビー婚式を祝う食事も殆ど食べられない状態で,最後の結婚記念日になりました。そして,2016年からは妻の居ない一人で寂しく結婚記念日を迎えることになりました。

 今日は昼から11日に予約をしておいた医療センター近くの心療内科(メンタルクリニック)に出かけるために14時前に自宅を出ました。
 心療内科で問診票を書いて診察室に通されました。今回の医師は男性で年齢的には50歳ぐらいでしょうか。
 以前は総合医療センターの精神科に勤務されており,自分で開業した医師です。
 私は,現在一番困っているのは睡眠障害で体調が悪く,その結果不安感が増して落ち込んでしまうことを訴えました。妻を2015年に亡くし,一人暮らしで子供も居ないく,色んな病気を持っていることも話しました。
 前回の心療内科の医師は女性で,非常に神経質で自分は絶対正しいと考える人でしたが,今回の医師は私の話を全て聞いてくれるのですが反応が薄いのです。そして,前回のように”うつ病”だとは言はず,「神経質な性格ですね。」と言い,私が色んな種類の睡眠導入剤を服用しているのを見て「薬の効きにくい体質なのですね。」,「薬の種類を代えてみましょう。」と言うことになりました。
 取りあえず,1週間分の睡眠薬を処方して貰い,様子を見ることにしました。前回の”うつ病”の薬は副作用で2回しか飲まなかったのですが,今回の薬の副作用は眠気が取れにくいことがあるとのことです。何れにしても,夢(悪夢)を見ずにぐっすり眠りたいのです。
 妻を亡くし子供も居ない一人暮らし生活老人の不安感や虚脱感,健康上の不安感は耐える以外ないようで,日によって落ち込む度合が変化するのは仕方がないのでしょう。唯一,これを直すのは**(差別用語)になることです。

 薬局で薬を貰いJR環状線で京橋の京阪モールに行きました。今日は結婚記念日なのでお寿司を買おうと握り寿司を探したのですが,私には不向き(タンパクが多すぎ)のようなのでうなぎ弁当太巻き寿司を購入して,夕食時に妻と食べます。腎不全でなかったら,一番高級と思われる握り寿司を一杯買うのですが。
 妻との最後の結婚記念日はルビー婚であり,珍しく妻が外食をしたいと言ったので近所の”かごの屋”で握り寿司を食べたのですがシャリが不味すぎて妻は3貫しか食べませんでした。すい臓がんが,悪化しすぎて食べられるような体調では無かったのですが。
 この不味い寿司が,妻が口にした最後の寿司なので,美味しい寿司を妻に食べさせて上げたいのに。

 次は,結婚記念日には妻がいつも買って来て呉れていたのを真似てイチゴケーキ,モンブラン,プリンを購入して,これも妻と食べます。そして,少し早しのですが31日が妻の月命日なのでお供え用に焼き菓子,また母の手土産用に焼き菓子を購入しました。
 
 今日も寒い日で,自宅の最寄の駅で下車すると粉雪が舞っていました。まさか,結婚記念日を祝ってくれているのではないでしょう。
 朝食用のパン,ヨーグルト,ジャムが切れているのでスーパーによりましたが,今日は記念日なのでいつもは購入しないエビスの缶ビール(妻は瓶ビールが好きがったがスーパーでは売っていない)を買いました。

 夕食はいつも自室で一人で食べているのですが,今日は居間のソファーに座り妻と一緒に食べるためにエアコンをきつくし,昨日出した温風機も用意しました。外気温は1.2℃しかありませんから。そして,うなぎ弁当は電子レンジで温め,巻き寿司と共に妻用に取り分けて(私には多すぎる)お供えして,缶ビールは2個のグラスに注いで妻に供えて乾杯をしました。私は飲めないので,口をつけただけでしたが。来年も,この様な記念日を自宅で迎えることが出来るでしょうか。

 冬の夜に一人で祝う記念日は妻が亡くても結婚記念日
 二度とない結婚記念日予感して外食求めし妻哀れなり
 吾が妻と最後の結婚記念日の冷たき雨が悲別の涙

 
わが妻と最後の外食(しょくじ)冬の雨 悲しき記憶永久に忘れじ
 ルビ-婚式に妻と外食に出かけましたが,その日は冷たい雨が降っており妻との別れが短いことを悲しんで泣いているようでした。
 今年また寿司とケーキで祝いする妻は去るとも結婚記念日
 
2018年1月25日(木) 妻の温風機
 今日は近年まれな寒い日であり,羽毛布団1枚で寝ていて午前8時前に寒くてエアコンを入れました。その時の枕元の温度計は16.0℃と自室では珍しいことです。この日の大阪市の最低気温は-2.5℃と私には極寒です。
 最近は夕方風呂に入ることが多くなったので16時半前に風呂を沸かしましたが,我が家で寒い場所はトイレ,更衣室,浴室なのです。いつも更衣室で衣類を脱ぎ入浴して,更衣室で体を拭いて下着を着るのですが,この時が一番寒く,年寄りは気温変化による血圧上昇で倒れることがあるそうです。
 17時での外気温は2.2℃で今日の更衣室は15℃位でした。今日風呂に入るには勇気が要る?ので,どうしようか(浴室で体を拭いて肌着を切るなど)と考えていたら思い出しました。2015年に妻が亡くなり自宅整理した時に,妻が使用していた温風機を廃棄せずに押し入れに仕舞っていたのでした。

 2015年の冬の寒い夜も抗がん剤自宅療養中だった妻がこの温風機で自分の部屋の暖を摂っていたのですが,私が下着を脱いで風呂に入る際に「寒い!」,「寒い!」と叫んでいたのを聞いて私が入浴中に自分の温風機を更衣室にセットして温めてくれていたのでした。

 その時の妻は腹部が張れて動くのも辛い体調だったのですが,自室から温風機を運び出して更衣室まで運ぶ気遣いをしてくれたのでした。自分の余命が短いのを知らないで,私のために・・・・

 私が家電の買い物を含めて家事一切を妻に任せていたので,妻が加湿機能付きの1.1kW温風機を買って来ていたのですが私は気にしていませんでした。本来なら電機関係の設計者であった私が品選びをすべきだったのですが。

 今日は入浴の10分前に更衣室に温風機をセットして,浴室の扉も明けて部屋を温めました。
 そして,入浴中に私は”妻の心遣い”を思い出し,有り難くて久しぶりに涙が出てきました。妻の想い出が染み込んだ温風機を使用したから尚更でしょう。
 更衣室での温風機使用は,あの時妻がセットしてくれて以来約3年振りであり,今日は如何に寒いかです。

 私は洗濯をした後に直ぐに洗濯物が出るのが嫌いなので,今夜も入浴後に洗濯を行いました。
 そして,19時前にベランダにに出て洗濯物を干していると非常に寒く,又もや妻のことを思い出してしまいました。
 あれは,私が妻の余命が短いのを知っており,入院中の妻が汚した衣類を持ち帰り,入浴後に洗濯をしてベランダで干している時に,心細く妻の死に寒く・情けなく涙が出た時のことでした。
 明日も,妻との絶対に忘れることができない日なので今日は妻を思い出して,思いっきり落ち込みました。

 冬晴れて窓より光差し込めど室温上がらぬ寒波到来
 独り家の人の温もりなき部屋でエアコンの風春を演出
 在りし日に吾気遣いし病みし妻 まねて温風機脱衣所におく

 
寒き夜は人恋しくて寂しけれ まして粉雪舞う夜更けには

 この鳥枯れの時期に,宇治の木幡池にタカサゴクロサギが出ており連日100名近いカメラマンが詰めかけているそうです。寒い中ご苦労さんですね。背景が汚く,綺麗な野鳥でもなく2016年に撮影をしているのでパスです。
2018年1月24日(水) 髭をそる
 私は64歳で働くことを止めてから,サラリーマン時代にできなかったことをやろうとを生やし始めました。もう一つの理由としては,髭をそるののが面倒だったのです。
 髭は口髭顎鬚を生やしており,顎鬚が真っ白だったので妻からは「水戸黄門みたいやね。」と言われていました。

 それが,妻が亡くなって老人臭くみられるのが嫌になり,顎髭をそりました。そして,口髭だけを残して現在に至っていたのですが,最近鼻の下がこそばく,クシャミばかり出るようになったので昨夜その髭もそりました。
 クシャミの出は少なくなったので,口髭に微粉(PM2.5?)が付着して,鼻孔に入る花粉所に似た症状なのでしょうか。これも老化現象の1種でしょう。色んな体調変化が起ります。

 今日は特別寒い日で14時での気温は2.9℃しかなかったのですが,先週行けなかった理髪店に予約を入れて出かけることにしました。いつも行っている理髪店なので,散髪中は店主とその奥さんとで1時間近く色んな話をしました。理髪店も私には社交場なのです。

 散髪を終えて店の外に出ると頭が寒く,今日のような日に髪を切るのは失敗かも。
 帰路で総菜店に寄り,肉じゃが(水で炊き直すが)など5種類(明日の分も)のおかず購入して,足早で帰宅しました。

 「寒いね」と言えば「寒い」と応えあり その暖かさ感じる寒さ
 寒い日は自然と歩速早くなり 待ち人居ない自宅に向かう

 
2018年1月23日(火) 裁縫は出来ない
 今日は1ケ月以上行っていないプールに行って運動をするつもりでした。(気力はあった。)自宅を出るのは13:40なので昼食後にパソコンの前に座っていると寒くて仕方がないのです。気温は昨日よりも5℃は温いはずなのですが,寒いのです。当然エアコンは26℃設定でパソコン周りは24℃となっています。
 1ケ月以上行かないことはことは以前からよくあることで,高価なプール費用となっていましたが妻が亡くなってから運動と気分転嫁も込めて少し無理をしても行きたいのです。会員を辞めて日券を購入した方が絶対に安いのですが,見栄で会員を続けています。

 冬になるとプールに入るのが寒く(水温は31℃)て,プールから上がってもスチームサウナで体を温めるのですが,直ぐに寒くなるのです。以前は,このような寒さをあまり感じなかったので,寒く感じる原因は私の体重が減り(皮下脂肪)耐寒性能が低下したためでしょう。不思議なことに以前はスチームサウナに入ると汗が吹き出したのですが,最近は汗が殆ど出なくなりました。これが,夏場に老人が熱中症になっても気付かない理由でしょう。
 寒気が有る体調でプールに入ると,余計に寒く何かが起こると怖いので今日もプール行を止めました。

 そして,13時前から横になり2時間ほど居眠りです。今の私には眠っている時が一番幸せなのです。意識せずに永眠出来たら最高の幸せでしょう。
 1月度の電気料金の請求が9900円となりました。(昨年1月請求分は7100円)これまでの最高は,妻が自宅療養中でエアコンや温風ヒーターを使用していた2月度の請求金額が1.7万円を超えました。エアコンを使用しない時は4300円位なのであり,夏場に連日24時間クーラーを運転しても8000円位なので暖房の電気代は高いです。(夜寝る時は止めているのに。)多分,2月度の請求分は1.2万円を超えると思いますが,一人暮らしの家の電気代はどれぐらいなのでしょうか。

 腰痛が酷いのですが,今日は寒くて整形外科医院に行く気起らなかったのですが,先週は行っていないのと明日からますます寒くなりそうなのでUクロ厚手ダウンジャケットを着こんで14:05に自宅を出ました。15分から診察受付で,16分ぐらいの到着で診察番号は9番でした。相変わらずお婆さん(私より年上)が多く,付き添いと一緒に来られている方もいます。寒い中医院に来る人は,腰を庇ったり,膝を庇ったりと体の不自由な人が多いのですね。何を考えて生活されているのでしょう?判りません。

 腰に注射をする時にダウンジャケットを脱ぐと小さな羽毛が飛ぶのです。気にはなっていたのですがジャケットのフード部の天辺(縫い目でない部分)が少しほじけて穴が開き,そこから羽毛が出て来ているようです。補修方法が判らないので,リハビリ助手の女性(おばちゃん)にジャケットを見せ「ここ,ほじけてんねんけど,どうしたら良えやろか。」と聞いてみると,「縫うたら良ええねん。」と言われました。
 でも私は裁縫などできず,妻が亡くなってから3年間で針など持ったことが無いのです。このダウンジャケットはUクロで私が購入して,主として野鳥撮影用に着ているのです。それまでは,Uクロの5000円以下の安物だったのですが,2年ほどで裾の部分が擦り切れて来て捨てて,一番高級だと思った1.5万円の品を買ったのですが,やはり安物は駄目なのでしょうか。妻が買ってくれたDAKSのダウンコートは10年以上経っていますが,何処も傷んでいません。ただ,今の私には痩せたので大きすぎるのです。

 私は「もう,捨てたろか。」と言うと,その女性は「まだ,新しいのに勿体ないですよ。」と言ったので,「それなら,セメダインで穴をふさごうか。」と言ったら,「あまり目立つ場所ではないので,それでも良えかも。」と答えてくれました。そこで,帰宅後早速セメダインで穴を固めました。一人暮らしの男老人が裁縫をやっている姿は惨めすぎます。
 
 ダウンジャケットの補修で妻のことを思い出しました。
 妻が自宅療養中の1月に私が着ているチャンチャンコを見せて,「襟が擦り切れて来てん。」,「新しんのん買わなあかんな。」と妻に言いました。その時,私は妻の余命を知っていたので”買って欲しい”とは言えませんでした。そして,そのまま妻は2015年3月末に他界しました。
 その年の晩秋に寒くなって来たので,仕舞っていたチャンチャンコを出してきて襟の部分を見るとたどたどしい縫い目で妻が補修してくれていたのです。その時妻は,抗がん剤の副作用とがんの痛みに耐えながら,尚且つ加齢黄斑変性でほとんど見えなくなった右目で私のために補修してくれていたのだと思うと”有難くて”,”妻が可哀想で”,”愛おしくて涙が零れてきました。

 このDAKSのチャンチャンコは妻の愛が縫い込まれているので,いくら擦り切れて汚くなっても捨てません。妻の有り難い置き土産なのですから。

 体重に反比例する電気代エアコン入れて寒さに耐えり
 整形の待合室で座するひと外見不自由心は知れず



2018年1月22日(月) 寒すぎる
 今日は日本列島を強烈な寒波が襲いました。大阪市内も朝から雨で時々雪が混じる天候です。最高気温は5℃で15時には2.1℃まで下がったので,寒くてパソコンの前に座っていられません。エアコンの設定は26℃で直接温風が体に当たらないように天井方向に向けているので枕元の温度は22℃となっており,寒い室内ではないのですが寒くて仕方がないのです。室内でもダウンジャケットを着て,その上からチャンチャンコを着ているのですが寒いのです。
 
 このマンションに住んで43年以上となりますが,これほど寒く感じるのは今年が初めてです。今回の寒波は40年振りの寒さではないのですが。
 若いうちは,天気の良い日にはベランダ側の障子を開けると陽が差し込むので真冬でも暖房を入れないことが多かったのですが。最高体重は90kgを超えており,皮下脂肪が厚く寒さには強かったのですが,ダイエットをして76~78kgを維持していた時もこれほどの寒さを感じることはありませんでした。
 2014年12月に妻にがんが見つかり,余命宣告をされてから私も不安の心労から食欲がなくなり,3ケ月で61kgまで痩せてしまいました。そして,一人での生活が始まり,体重が少し減ったが58kg代で安定するようになりましたが,寒さにはめっぽう弱くなりました。

 そして,古希を迎え新年を迎えるごとに年々益々寒さに弱くなってしまったのです。寒さに我慢できず,今日は15時前から布団に潜り込みエアコンの設定温度を27℃まで上げて,風向きを下の方に下げました。すると,枕元の温度は29.1℃まで上がり寒さがなくなりました。しかし,この様な気温は異常ですね。
 今日のような日は,いくら厚着をしても絶対に外出が出来るような体調じゃなくなりました。精神的にも,肉体的にも辛い日が続いているのに寒波までが私を虐めています。本当にひ弱い人間になってしまいました。

 妻逝きて初めて知りしこの吾がかくもひ弱き人間なるを
2018年1月21日(日) 雨に降られて
 益々睡眠障害が酷くなっており,昨夜?(今朝)は午前5時前に眠りにつきました。睡眠が浅く10時過ぎには胡散臭い廃品回収業者がインターホンを鳴らしたが出てやらなかった。この業者は,以前も自宅訪問をしており管理人が居ない日曜日を狙って戸別訪問しているようです。古くなった家電品を引き取ると言って,法外な金額を要求する悪徳業者老人宅の狙い撃ちのようです。こんな輩は人間の屑です。詐欺や脅しを生きがいにしているのでしょう。

 今日も昼過ぎに目を覚ましましたが,食欲もなく布団に横になったままテレビを観ていました。益々”生きがいとは”が判らず,毎晩眠れないので写真の妻に「もう嫌やねん。」,「いつ帰って来てくれるねん。」,「あんたの部屋にはベッドも用意してあるで。」,「帰って来られへんのやったら,迎えに来てえな。」,「一人の生活は寂しいねん。」と異常な語り掛けをしています。
 間もなく,妻が亡くなって3年となるのに,未だにこの様な精神状態になるのは異常でしょう。26日に心療内科に行くので,最低でも睡眠障害を直さないと普通の生活ができません。
 1月に入って体調も悪く睡眠障害と重なって,何もする気が起らず寝てばかりの時間が長くなりました。プールにも1ケ月以上行っていなく運動不足で便秘も酷くなり,余計に憂鬱です。

 今日は6日ぶりに14時半から嫌々スーパーに出かけました。妻が療養中は毎日,妻が亡くなって間もなくは2日に1回,それが3日,4日,5日に1回とスーパーに出かけていましたが,出かけるのが面倒くさいのです。食品は腎臓食のレトルトや冷凍食品を通販で購入しているので,料理のしない私は頻繁にスーパーに行く理由がないのです。
 今日はスーパーに出かけ,先ずは妻のお供えにバナナ1本,お花2束を購入して,私用に食パン(6枚切り),ヨーグルト,ジュース,ミネラルウオーター,そして今夜のおかず用に寒ブリ刺身(4切れ・・・この量で私には限界),春雨サラダを購入しました。
 今日も料理をする気が起らないので,このおかずを購入しました。妻が亡くなって間もなくは,一人鍋用にと電気グリルを購入して湯豆腐すき焼きを作っていたのは寂しさを紛らわすためだったのでしょう。今では,「もう,どうでも良えねん。」と投げやりな生活が多くなりました。

 そして,15時半からは運動不足解消のために,何日ぶりか忘れたぐらいで遊歩道を散歩しました。この時期の遊歩道沿いにはサザンカが植えられていますが,花弁がパラパラ落ちて緋の絨毯となっている場所もあり寂しさを掻き立てます。今日は頑張って4.2km 7700歩を歩きましたが,帰路で雨が降って来て急いで歩いたので,自宅到着時にはへばっていました。

 独り家で冬ぞさびしさまさりけり 妻のぬくもり欲しくも去りし
 寂しくて布団の上で仰ぎみる余生の陽は傾きにけり
 マンションの冬木にそそぐ時雨 見ている程にいや寂びしもよ

 
2018年1月20日(土) 遅すぎた
 昨日外出したためなのか,昨夜は午前0時過ぎから夜間頻尿が酷くなり1時間毎に尿意を催してトイレに行くので眠られません。結局,寝付いたのは午前4時を過ぎており,それでも1時間毎にトイレに起こされるので熟睡などできず,夢ばかり見続けます。
 お蔭で目を覚ましたのが昼過ぎでしたが,未だ眠く体が怠いので起床できません。やっと,12時半に起床して朝食兼昼食(食パンとヨーグルト)を摂りました。
 13時半前に野鳥友達から「淀川中津の公園にトラフズクが出ているよ。」,「昨日発見されたらしい。」と情報が入ってきました。トラフズクはこれまで2回撮影しているのですが,枝かぶりや寝てばかりでまともな撮影ができていないのです。
 是非行ってみたいのですが,自宅から電動自転車で1時間以上かかるので出現場所到着は15時ぐらいとなります。トラフズクは夜行性なので,目を開けるのを待っていると帰路は灯りのない真黒な河川敷を自転車で走ることになり怖いのです。何より,最近1時間以上自転車に乗った記憶もないので体力的にも心配なので断念しました。

 すると14時過ぎに2回目の情報が入ってきて「現在,トラフズクは枝かぶりで全身が見えないが,午前中は全身が見えた時があった。」,「朝からカメラマンは100名以上集まっていたが,現在は50名ぐらいに減った。」とのことでした。100名も居ると木立の中のトラフズクの撮影は難しかったでしょうが,昨夜から情報が入っていれば今日は朝から出かけたと思いましたが。残念ながら,情報の入手が遅すぎました
 10年近く前なら,かなり早く情報を頂けてカメラマンが少ないうちに野鳥撮影ができたのですが,現在はカメラマン(年寄り)が増えたのと情報の伝達速度が早くなったので数時間で100名ぐらいが集まります。
 なお,私が野鳥撮影を始めた頃は500mm単焦点レンズが標準的な野鳥撮影機材でしたが,近年は高倍率のコンデジや安価なズームレンズが増えたので野鳥カメラマンが増えたのでした。その内に,スマホで撮影できる時代が来るのでしょう。
 いつも不思議に思うのですが,野鳥撮影の定石は背景を暈して野鳥を引き立たせることなので,解像度の良い大型レンズ(500mmF4,600mmF4)を使うのですが,オモチャのカメラで撮影した画像はどのようにするのでしょうか。人間は進歩する動物だと思うのですが。
 なお,私も体力的な限界から昨年500mmレンズを売却してしまって100-400mmズームレンズに買い変えたので大きなことは言えませんが。そして,そのレンズは21万円も出したのですが撮影回数は5回ほどなので,買わなきゃよかった?400mm単焦点レンズを持っているのに。

 16時前から散歩に出かけ,帰路で総菜店によろうと思っていたのですが,どうも眠くて体が怠いので止めました。やはり,野鳥撮影には行けなっかたのでしょう。もう,10年若ければと今日も思いました。
2018年1月19日(金) ガラケイは必要
 便秘薬による腹痛もなくなったので今日はの入っている特養に出かけることにしました。便秘薬は効果があるのですが,いつ腹痛が起り排便したくないのか判らないので服用すると2日程は外出もできません。
 今日は先日購入した焼き菓子を持って昼過ぎに出て,特養の最寄の駅のコンビニで母の好きな稲荷寿司(3個入り)と豚まんを購入して特養に行きました。母は横になってテレビを観ていたのですが,ベッドを起こして上げると稲荷寿司1個と,豚まん半分を「美味しい。」と言って食べました。
 そして,「最近は誰も逢いに来てくれへん。」,「もう,歳よりは見捨てられた。」と拗ねています。私は,2週間に1度の訪問ですが,少なくとも毎週誰かが訪ねているはずだのに母が忘れているのと思いました。でも,面会名簿を見てみると特養の面会者は少なく,普通の入居者の面会は月1回ぐらいなのでしょうか。
 また私が入居した場合を考えると,面会者は誰もいないので”母は贅沢だ”と思いましたが。

 母は「携帯を無くしたので,誰とも連絡が取れない。」と言っているのですが,昨年2月の介護施設入居時に”かんたん携帯”(ガラケイ)を新規契約して渡しました。
 母はそのガラケイを何とか使用していたのですが,8月に1ケ月以上入院して認知症となり私が誰かも判らなくなったので,もう使用出来ないだろうと9月にガラケイは私がスマホに機種変更して現在その電話番号で使用しています。
 あの時の母の状態を見ると,携帯で話が出来るようになるまで回復するとは思いませんでした。ただ,今は寝た切りなので携帯の充電などは自分でできなくなりましたが,手は動くのでガラケイの使用は出来そうです。
 
 今日は母に「叔母さん(母の妹)と電話するか?」と聞くと「する。」と言ったので,電話をかけることにしました。
 しかし,大阪市内の特養なのにAU(私の電話掛け放題のガラケイ)の電波が弱くアンテナが1本しかなく,時々切れます。一方,私のスマホはソフトバンクなので電波は強いのですが5分以上の会話は1分/40円と高いのです。
 そこで,叔母さんに電話して私のスマホに電話をくれるようにお願いしました。(叔母さんの携帯は電話掛け放題のため)
 母は私のスマホで1時間近く叔母さんと話をしていましたが,流石にスマホの操作は無理で無意識に画面に触れてスピーカーモードになったり,電話を切ってしまったりしました。私も,高齢なのでスマホを使い熟していませんが??自宅に居る時間が長いので,タワー型のパソコンの方が便利なのです。因みに,スマホでも文字入力はローマ字カナ変換を使用していますが,パソコンのキーボードと配列は同じなのにキーを探し人差し指1本で入力するので非常に遅いです。

 現在ガラケイの機種は減る一方で,生産中止を行った会社もありますが,これからの高齢化社会を見据えた場合に電話機能に特化したガラケイが必要でしょう。写真やメール機能など不要で,短縮通話ボタンを5個以上設けて,大きな声で聞こえる携帯が良いのですが。

 特養からの帰路でお供え(28日の父の命日用)を持って実家に帰りました。その時は,弟は鍼灸院に出かけていて留守でしたが,その嫁と話をすると「特養でインフルエンザが流行したので面会者の立ち入りが禁止になった。」,「日曜日に息子夫婦(4人)が面会に行ったが,入れてくれなかった。」とのことでした。
 これで,母が「最近は誰も逢いに来てくれへん。」と言った意味が判りました。特養では,インフルエンザは死につながる病気なのです。
 暫く,弟の嫁や息子と話をして実家を後にしました。自宅到着は17時前だったのですが,今日は寒い日ではなかったのに,相変わらずの寒がりでした。

 今日は夕方野鳥情報が入って来て「行きませんか。」とのことだったのですが,背景が判らないと飛来数が4羽と少ないので辞退しました。野鳥はヒレンジャクであり,出現場所は奈良西大寺の近くのグランドとのことですので,飛来する木はヤドリギ,ネズミモチでしょうか。ピラカンサまたはクロガネモチなら多少は絵になりますが。近年,ヒレンジャクの関西飛来数が少ないです。
2018年1月18日(木) 遺産相続
 どうも体調が悪くて仕方がない。妻が亡くなってから,体調悪化進行速度が早くなっていると思う。
 妻が亡くなった時のように,遺産が何も判らくなったら面倒なのでメモ(法的に拘束力はない)として,預金口座の数および種類,通帳やカード(パスワード含む)の保管場所,不動産の登記書などを記録しているが,私が亡くなった場合に遺産相続が発生します。
 そろそろ遺言書を作っておかねばと,昼からWEBで調べてみました。技術系の私にはこのような手続きが大嫌いで,認知症の義母が居て妻の遺産相続の時に困りましたから。
 もし,今私が亡くなったら妻や子供が居ないので私の遺産(動産・不動産)は全て母が相続することになります。母だけが私の法定相続人となるのですが,少し認知症の症状があり,寝た切りで何もできないので家裁に後見人申請など司法書士に依頼する必要があります。(弟が行う。)
 母が私より先に亡くなれば,弟が法定相続人となるので私の全遺産を相続することが出来るのですが,弟が認知症になると相続不可能になる場合もあります。普通預金だけならカードで,何回かに分けて引き出す手(違法?)もあるのですが,マイナンバー制度が完全に働きだすと個人の口座も管理状態に置かれるので,これもできなくなります。また,定期預金やファンドなどは解約手続きが要るので,正規の遺産相続が要るのです。それよりも,不動産(持ち家)を持っていても正規の遺産相続が必要となり,老朽化したマンションの買い手がなければ固定資産税や管理費を払い続けなければなりません。戸建ての住宅や古くなったマンションも同じ問題があり,高齢化社会での空家問題が問題視されています。

 家族の居ない一人暮らしの人が亡くなると,遺産相続を確実化するために遺言書が有効なのです。
 ただ,この遺言書も種類があり,各々一長一短があります。
1.自筆証書遺言書
2.公正証書遺言書
3.秘密証書遺言書
4.弁護士などに依頼する遺言書


 自筆遺言書程度であれば,作成の自信がありますが家庭裁判所の「検認」が必要なのが面倒です。
 弁護士に頼むとべらぼうな費用がかかるので,公正証書遺言書が未だ一番良いのかと思いました。弟と相談して公証役場に問い合わせてみます。
 なお,一人暮らしの人が亡くなると配偶者がなくなった時よりも手続きが増えるのは,その家の生活すべての処分が必要なので出来るうちに,それらを簡素化するために終活が必要なのです。

 今日,昼過ぎのワイドショーで”おひとりさん”が年々増えて来ており,生涯独身者の増加,長寿命化による死別老人の一人暮らし(女性が多い),離別者の増加が原因とされていると放送されていました。その中で,一人暮らしの高齢者の1ケ月当たりの最低生活費は14.7万円(家賃は1.2万円計上)となっていましたが,基本的に間違っており,その金額には健康保険,介護保険(1.5~2万円)や税金(所得税・府市民税)が含まれておらず,やがて入らねばならない介護施設の費用を考えると全く足りません。
 そして,まだ現役の独身者は「何でも自分でできるので,一人暮らしの方が気楽で良い。」と馬鹿な意見を言ってましたが,病気になったり怪我をして寝込んだり,健康寿命が来た時に失敗したと反省するでしょう。でも,結婚しないと言うことは私の様に”妻に先立たれる”と言う悲しい経験をしないのは幸せでしょう。
 
 体調も悪く,考え込むことが多く,テレビを観ていても頻繁に妻のことが思い出されます。結婚40年と言う歴史は,非常に沢山の想い出を蓄積しているので,何かのトリガーが入ると直ぐに昨日のことのように,それらが脳裏に浮かぶのです。妻が亡くなって,3年位では仕方がないのでしょうか。

 40年思い出の数多すぎて3年ぐらいで忘れ得ぬ妻
2018年1月17日(水) 23年
 今日のニュースで各局が報道していますが,早いもので阪神大震災が発生して23年となるのですね。
  1995年1月17日(火)の5:46に神戸を中心に未曾有の大地震が発生した。今日で地震発生以来23年となるが,あの時の恐怖は未だに覚えています。大阪市内のマンションに住んでいる私は夜明け前の大きな振動で目を覚まされました。
 「地震だ!」と叫び飛び起きましたが,本箱の上の碁石が落ちてバシャ!!と鳴る音に尋常ではないと判断し,妻に「布団を被れ!」言っていました。
 揺れが治まり,何を思ったのかベランダ側の戸を開けた後で大きな揺り戻しが心配となり玄関を開けようとしましたが扉が食い込んでおり開くことが出来ません。扉は引き戸なので,体当たりをして開くことも出来ず必死で取っ手を引いている内に何とか扉を開きました。
 玄関とベランダ側の窓を開けたままテレビで地震情報を見ようとしたのですが,詳細が発表されません。あまりの大きな揺れに完全に目が覚めてしまい,そのまま起床して朝食です。
 7時過ぎに会社に出勤しようとしていたら大きな余震が我が家を襲いました。これは出勤できないかも知れないと思ってテレビのニュースを見ていると大阪市内の交通(電車)は完全に止まっているようなので出社を断念しました。
 大阪市内の実家が心配となり電話をかけますが繋がりません。当然会社にも電話が繋がりません。テレビでは時間が経過する毎に地震の惨状が画面に映し出されます。丸で地獄絵を見るようで画面に釘付けになりました。やがて,公衆電話でから電話があり「全員が無事だ。」との話でホッとしました。(会社からも電話がありました。)
 阪神大震災での私の住んでいる地域の揺れは震度5強とされていますが,生まれて初めて経験した大きな地震であり,その後の余震でも神経が過敏となり非常に恐怖を感じたのを未だに覚えています。
 
 現在は南海トラフ沖地震の発生確率が高いと発表されており,その時の大阪市の予想震度は6強とされていますが,現在住んでいる老朽マンションではこの震度に耐えないでしょう。そして,津波や液状化現象により確実にインフラは遮断されるでしょう。現在の私では地震の恐怖(本震・余震)に耐えることも出来ず,食事制限が厳しいので生活できません。我が家はマンションの3階であり歩いて階段を上り下りできるのですが,超高層マンションに住んでいるお金持ちの老人もインフラが止まると生活ができなくなります。大阪に住むのなら3階以下が良いですよ。価格も安いしね。
 昔から,世の中で一番怖いのは”地震”と言われていますが,一人暮らしの私は”緊急地震速報”でも非常に不安となります。せめて,妻が一緒にいてくれたら心強いのですが。
 従って,私の生きているうちに”南海トラフ地震”が起らないように,神頼みだけです。ただ,妻のがんを治せなかった神頼みなどは全く信用できなくなりましたが。

 今日は毎年この時期に行われるマンションの配水管清掃日で業者が台所,洗面所,浴室の配管を洗浄してくれます。2015年には自宅療養中だった妻が台所などの片付けを行っていましたが,2016年からは私がすることになりました。
 昨夜の内に台所の流し台下の鍋を居間に移動させて準備を済ませました。2015年の自宅整理の時に,料理の出来ない私には不要と多くの鍋を廃棄してあり,私が新たに購入したのは一人で湯豆腐とすき焼きをしたくて電気グリルを購入しただけです。
 11時過ぎに業者が来て10分ほどで清掃を済ませてくれました。老朽化したマンションでは,ガス漏れ点検,漏水,漏電点検などが行われます。

 今朝も10時過ぎにリホーム業者から勧誘電話が入ったので,私は「お世話になっています。」とおちょくってやりました。そして,「何処でこの電話番号を調べたんや。」,「我が家の状態を知って電話をしてるのか。」と色々追及してやると,相手は電話を切ってしまいました。大阪は詐欺の発生が日本一ですから,電話勧誘も詐欺です。
 もう売込み電話に我慢が出来ず,固定電話にかかる99%が勧誘電話なので”自動安心応答”の設定をしました。呼び出し音が3回鳴ると「あなたのお名前をおっしゃってください。」と要求し,相手の声がスピーカから聞こえるようにしました。そして,それが勧誘などの気に食わない電話であれば””ボタンを押すと「この電話はおつなぎできません。」と返答して切ります。

 今日は朝からかなりしっかりした雨が降っていましたが,昼食後に理髪店に予約電話を入れると臨時休業だったので14時前から昼寝でした。
 蠟梅の開花情報も聞こえており,今日の雨で梅の蕾も膨らむので春は近づいて来ています。この寒さも,暗い生活も嫌なのでせめて春が来るのを待って生活をします。

 冬雨で蕾ふくらむ梅の花春が近きを知らせるごとく
2018年1月16日(火) 尾籠な話
 今年に入ってから便秘(3日間以上無便)が続いており,便秘薬の服用ですです。昨年までは,便秘になり便秘薬を服用すること(年に1回ぐらい)があったのですが,私は薬過敏症で半日ぐらいで腹痛が始まり,その後排便は頻繁に出来るのですが食事をすると下痢状態になり,酷ければ血便となるのです。
 どうも歳をとると腸が弱くなり便秘になる人が多いようですが,私は運動不足も原因しているのか先週は就寝前に便秘薬を飲み翌日に,少し腹痛はあったものの全て排便しました。
 今回も13日から排便がないので腹部が張って気持ちが悪いので,昨夜寝る前に便秘薬を服用しました。この薬を飲むと翌日に我慢できない便意を催すので外出は出来ないと思っていました。
 今朝も8時間は横になっていたのですが眠くて11時過ぎに起床しました。朝食を摂りパソコンの前に座っていると,強烈な寒気と頭痛が襲ってきました。今日は14.9℃と暖かい日なのですが,この体調は異常です。昨年も同時期に風邪をひき体温が38.4℃まで上がって苦しみました。
 昨日の内科医院の待合室では風邪引きの患者が多かったので感染した可能性があると思い,布団に潜り込みました。老人の風邪引きは,肺炎を併発して死につながる(苦しいから嫌だ!)病であり,高熱となると一人暮らしでは台所にも立てないので食事ができなくなります。
 因みに,今年はインフルエンザの予防ワクチンが品不足であり,65歳以上の高齢者は2回接種とされていますが,私は1回しか接種で来ていません。もっとも,この接種の効果は不明ですが気休めで行っています。

 16時過ぎまで布団に潜り込んだままで居眠りをしていたら,多少頭痛が治まってきました。しかし,腹痛が始まりトイレに駆け込んで少し排便です。
 今回の便秘薬の効果は少なく,量が少ないのですが。なお,便秘薬は益々行動に制限を受けるので常用したくないです。
 精神的にも落ち込んでいるのに,体調に便秘まで加わって益々嫌になってきます。
 今日は尾籠な話でしたが,日記は私の体調の記録ですから。

 風邪引きも一人暮らしの生活を不安にさせる体調変化
2018年1月15日(月) 又もや泣けるドラマ
 昨夜も録画しておいた”娘の結婚”と言うドラマを観て,又もや泣かされました。
 人生の大きな決断のひとつである「結婚」。悩み,葛藤した父娘がたどりついた小さな奇跡と大きな感動。主演・中井貴一が贈る多くの人の共感を呼ぶ傑作ホームドラマとされていました。

 物語では,娘が幼い時に母親である妻を亡くして,男手一人で娘を育ててきた父親でした。
 娘の結婚を控えた正月に父親は,38度の高熱を出した娘を張り切って看病した。(結婚して娘は家を出るので最後の看病だと思ったのでしょう。)
 これまで娘が風邪をひくと父親はお粥を作ってヨーグルトにハチミツをかけて食べさせていました。
 この日「風邪引くといつもヨーグルトだけれど本当はアイスクリームが食べたかった。」と娘が言い出したので,父親はアイスクリームを買に出かけた。
 
 父はヨーグルト,娘はアイスクリームを食べながら,父が「健康診断の結果がショック。」と切り出し・・・実は身長が180cmに1cm短くなっていたと他愛のないことを話した。
 どうでもいいけど大切な二度と来ない日常の話しをしていた。娘は子供の頃父親から「新しいお母さんが欲しいか?」と聞かれた時に返事をしなかったが,この日は「もう一回聞いてくれる?新しいお母さん欲しいかって」とお願いした。
 「やだよ。」と父親は笑う。娘は「お父さん,お父さんは自分の人生を生きて下さい。今まで育ててくれて,支えてくれて、ありがとうございました。」と言った。
 それが娘と二人で過ごした最後の正月だった。

 私はこの場面で娘を嫁に出す父親の寂しさと,一人暮らしになる父親の寂しさを自分と重ねてしまい目頭が熱くなりました。

 そして,春には式をあげ娘は嫁いで行きました。

 観終わって嫁ぐ娘を送り出す父親の心の機微や悲哀を只淡々と描写している,沁みる 良い作品だったと感じました。
 一番グッと来て涙が零れたのは,
 スーパーでつい手にした特売の鮭2切れパック(以前は娘と自分用)を戻して,1切れのパックを手に取り直し娘が嫁いだことを実感する父親のシーンは堪らなかった。
 私も2015年2月18日に妻が入院してから,始めて自分で購入した鮭は”減塩鮭1切れパック”でした。そして,その鮭を妻から教えられたように味りんにつけて,生まれて初めてガスオーブンレンジを使用して焼いて,食べたらおいしかったのを自慢気に病室の妻に報告したことを思い出しました。
 妻は3月31日に無言の帰宅となったので,料理が出来ない私には妻から鮭の焼き方しか教えて貰っていません。

 初めての鮭一切れを買い求め上手に焼けたと妻に自慢す

 昨夜も眠ったのは午前3時半を過ぎていましたが,10時前に枕元の固定電話の呼び出し音で起こされました。受話器をとると女性の声で「リホームの**ですが。」と聞いた瞬間に私は「お前とこ,ヒツコイな!」と怒鳴って電話を切りました。
 その社名に記憶はないのですが,老朽マンションに住んでいるためにリホーム業者から度々電話が入るのです。
 電話をした女性は仕事で電話勧誘しているのでしょうが,詐欺もどきのリホーム業者が多いので私は電話勧誘に腹が立つのです。もっとも,無断で郵便受けに投函されているチラシも見ませんが。

 電話で怒ったので目が覚めてしまい,ゆっくりと朝食を摂りました。そして,毎日食後に服用している薬がなくなったので,それを貰いに自転車で内科医院に出かけました。
 待合室は風邪引きの患者が多いようで,うつされないかと怖かったのですが薬を貰って帰路につきました。その途中で,スーパーに寄り妻のお供え用にイチゴ(今日はイチゴの日だそうです),私用に食パン,ヨーグルト,野菜サラダ,牛乳,野菜ジュースなどを購入しました。
 そして次は,今夜は肉うどんにしようと精肉店により,いつもの様に佐賀牛のすき焼き用ロース150g(3回に分けて食べる)を購入し,ついでにコロッケ2個も揚げてもらいました。

 コロッケは揚げたてが美味しいので,1個は昼食に食べることにしてもう1個は「コロッケも買うてきてん。」と写真の妻に供えました。私は,何でも妻のために買ってきます。もし,夢でも良いから食べたいものを妻が私に教えてくれたら,何でも買ってきますよ。

 昼食後は妻へのお供え,母への手土産,実家のお供えを買いに京橋京阪モールに出かけました。
 買い物を終えて,自宅の最寄駅で降りると突然妻のことが思い出されました。2015年2月14日に自宅療養中だった妻が京橋の京阪モールで買い物をしたので,この駅まで迎えに来た時のことです。(詳細は2月14日の気まぐれ日記
 そして,この日を最後に妻は好きだった京橋・京阪モールでの好きな買い物ができなくなり,私の迎えも必要なくなりました。
 あの時,私が自転車を押しながら一緒に歩いた妻が非常に辛そうだったのが,昨日のことのように思い出してしまいました。

 今日は電話で無理やり起こされたのと,出歩いたので睡眠不足と疲れで眠くなり,昼寝をしようと横になりましたが神経が高ぶり眠られませんでした。もう妻が亡くなって3年近く経つのに,今年も命日反応が始まったようです。1月から3月末までは,一番辛い・苦しい・悲しい思い出が一杯ありますから。
 ああ,妻と無性に話がしたいので,帰って来てよ!情けないですが,70歳を過ぎた一人暮らしの老人の叫びです。
2018年1月14日(日) 年賀の便り
 お互いに年賀状の交換はしていますが,もう何十年も逢ったことが無い学友,会社員時代の先輩や同僚などが居ます。その中で,元会社の同僚で私よりかなり前に会社を辞めて起業している人よりの年賀状で”電話番号をお知らせください”の添え書きがありました。
 会社名の入った年賀状であり,代表取締役として電機関係の研究所を起業して30年近く経っているので経営は成り立っているのでしょう。彼とは現役時代同じ設計課に席を置いており,現在のように120時間残業をして過労死などと問題にされないぐらい我武者羅に働いていました。
 当時,私は実家から通っており通勤に1.5時間ぐらいかかるのと終電に間に合わないことが多かったので,彼のアパートに多い時は週に3回ぐらい泊めてもらっていました。彼や私が結婚した後は,お互いに夫婦連れで旅行に行った仲でした。
 課長になってからも,帰社時間は午前0時を超えることが多くタクシーで帰宅していました。また,帰宅できればましで,会社の応接室で仮眠したことが何度もありました。
 彼が,今から30年ほど前に会社を辞めてから疎遠になり,最後に逢ったのは20年ほど前に私が東京出張からの帰路で,新大阪駅でばったり出会い食事をした時でした。

 昨夜は,彼からの年賀状に携帯の番号が書かれていたので電話を入れました。私は自宅に籠っており誰とも喋らないので呂律が回らず,彼に私だと気付いて貰えませんでしたが,私も彼の声が判りませんでした。
 久しぶりの彼との話で,まだ現役で頑張ているようで「80歳までは働く。」と意気込んでいました。彼の奥さんも元気なようで,もう一人の同僚を誘って食事でもしようと言う話になりました。しかし,残念ながら私は好きなもが食べられませんが付き合いです。

 年賀状には疎遠となっている知人の近況が書かれている場合が多く,今回も久しぶりに再会する機会を得ました。また,年賀状ではありませんが,私が妻を亡くしたことで喪中はがきを出したら,元部下達6名が自宅に来てくれるようにもなったのです。味気ないメールよりも,自筆で添え書きをした年賀状は温かみがありますね。

 それにしても,大学時代の友人,高校時代の友人,会社員時代の同僚の多くがまだ元気に働いていることに対して,私は人生の敗北感を感じるのです。
 以前から何度も書いている”友が皆 我より偉く 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻と親しむ”と言う,石川啄木の短歌を思い浮かべます。
 そして,私には花を買って帰っても親しむ妻は居ません。

 昨夜は電話を終えて,ひしひしと自分自身の憫然たるさまが情けなくなり,精神的に落ち込んでしまいました。どうも,今年に入ってからは落ち込んだ日が多く精神安定剤の服用回数が増えています。
 今日は久しぶりに8時間以上寝た感があったのですが,この様な生活で良いのかと自答自問してしまいました。好きな時間に起きて,朝食を摂り,時々掃除・洗濯をして,夕食を摂って片付けをして,入浴して1日が終わるのです。たまに,買い物にも出かけますが,この様な生活に何の意味があるのでしょう。
 極力,将来のことなど答えの出ない問題は,考えないようにしているのですが。

 年賀状疎遠の友の添え書きで親交もどるきっかけとなり
 年賀状のみの付き合い増えたるは社交が減りし証なりけり

2018年1月13日(土) 感動の映画
 昨夜は録画しておいた”RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語”を観ました。
 映画のあらすじは,一流企業に勤務し,さらなる昇進も約束された主人公でした。そんな中年男が49歳で人生を見つめ直す話でした。自分は本当にやりたいことをしているか。その答えは,故郷の地方鉄道への転職だった。
 人生を鉄路に例えるなら,幹線をばく進してきた男が自ら転轍機(子供の頃から「電車の運転士になりたかったんだ。」と言う思いがあった。)を動かしてローカル線に入っていく。そして、「自分らしい人生」と「家族の絆」を取り戻していく。美しい風景,心にしみこむような物語に感動するだけではなく,家族愛や人生について考えさせられた映画でした。

 その映画の中で印象に残った場面は,主人公の母が悪性の腫瘍に侵されて余命が短いのを医師から知らされ,それを家族のだれにも話さなかった。病状を知らない母は主人公に「仕事があるでしょう。早く東京に帰りなさい。」,「やりたい仕事をするのが親孝行よ。」と言った場面であった。余命を母や家族に告げられない辛さが,私の場合と重なりました。

 次は,妻に現在の会社を辞めて故郷の地方鉄道の運転士になりたいと言った時です。(心の中では,母の介護もすると言う思いもあった。)その妻は主人公が電車が好きだったことを知っていたのでしたのでした。そして,「あなた息切れしている自分に,気付かないふりをしていた。」と話をして,転職に同意をしました。しかし,妻は仕事のために東京に残り別居生活が始まった。
 私も,56歳で悩んだ末に会社を辞めることにしました。プライドが気力・体力・能力の低下を許さず退職することにしたのです。辞めてからの生活など全く考えずに,退職日の3ケ月前にに「あと3ケ月で会社を辞めるわ。」と言うと,妻は理由も聞かずに「そう。」とだけ答えました。
 そして最後の出勤日に妻は玄関で私に「長い間ご苦労様でした。」と私を送ってくれたのでした。私が会社を辞めた後も妻は毎日遊びに出かけ,ハワイにも行っていました。私は9ケ月後に復職しましたが,収入は半分ぐらいに減ったのですが,妻の経済感覚は変わりませんでした。あの時に妻はどのように思っていたのか,今では聞くことが出来ません。

 最後は,母がなくなったある日に妻が初めて主人公が運転する電車に乗ってくれたのでした。その妻に「やっと乗ってくれたな。俺の電車。」と言うと,離れて暮らし続けている妻は「このまま夫婦でいいんだよね?」と聞いた。すると,主人公は「当たり前だ。」,「終点までちゃんと乗ってくれよな!」の会話で映画は終わりました。
 私は”終点までちゃんと乗ってくれ”と言う場面で目頭が熱くなりました。私の妻は人生の旅路を終点まで一緒に行ってくれず,私一人を残して先に下車してしまったのです。

 映画を観てどのように感じるかは,その人の現在の心理状態により異なると思います。私は懐かしくも,自分自身を悲しく思い感動を受けた作品だと思いました。
 今日も昼前に起床したのですが,少し熱があるようで体が怠く再び横になりました。
 昨年の今日は95歳だった母に自宅(実家)介護の限界が来て,母に介護施設に入ることを諭した日でした。その時は母は「長生きはしたくないなあ。」と涙を浮かべていたの未だに覚えており,現在は特養で寝た切りの生活となっています。いろんな人生があります。

 人生の終点いずこか判らねど妻は途中で輝きを消し
 我残し人生航路下船しし妻を偲びて厳寒に耐う

2018年1月12日(金) 詐欺が多いので
 ”はれのひ”とか言う,多くの新成人が予約金を支払っていた振り袖販売やレンタルを手掛ける業者が夜逃げをしたと言うニュースが連日報道されています。新成人にとって,成人式は一生に1回だけの祝い事であるのに,予約していた着物や着付けが出来ず晴れの舞台を台無しにしてくれた業者のことは生涯忘れないでしょう。

 いつも書いているように,マンション1階の郵便受けに投函される不法チラシ(家宅侵入罪で犯罪)が益々増えてきたような気がします。このチラシを投入しているのは委託された業者の人間であり,投函すると1枚当たり3円が貰えるとのことですが割の良い仕事とは思えません。なお,私はチラシを全く見る気もないので,すぐそばに用意されているごみ箱に捨てます。チラシを投函している輩は郵便受けに入れずに,ごみ箱に投入した方が手間が省けるのにネ。ゴミ箱の中に,多量に捨てられているチラシを見て,投函している輩は何も感じないほどの馬鹿なのでしょうか。
 チラシが減らないと言うことは,そのチラシの広告に引っかかる善良?な人が多いのでしょうか。私は,何も考えず”全て詐欺”と思っているのですが。

 テレビ(特にBS)でも詐欺もどきのCMを流し,腰痛が改善される,健康に良いとのサプリを大々的に宣伝している会社や,大声でこの商品が如何に安いかを宣伝しているJT等は信用できませんね。安いには安いなりの理由があり,家電などは型落ちであったり,標準より機能を削った特殊品が多いのでしょう。
 自宅の固定電話にも相変わらず勧誘電話が多く,「**証券ですが。」,「**保険ですが。」と割と名のある会社からも電話が入りますが,それが本物かどうかです。私はそれ等の電話に対して,「要らん!」と言って一方的に切りますが。

 今日も昼過ぎに電話が入り「京阪互助会センター玉姫殿ですが。」と聞いた瞬間に腹が立ちました。社名に”京阪電気鉄道”と同じ名をつけていますが,鉄道会社とは無関係の会社で葬儀を主体に互助会員(事前積立)を行っている会社です。胡散臭い社名だと思いますが。
 私が腹を立てたのは,妻が亡くなってから3回目の電話なのです。1回目は妻が興味を持っていた会社かもと「家内は亡くなりました。」と話をして電話を切りました。それが,今回は嫌がらせと思う3回目の電話なので「お前とこ,ヒツコイなあ。」と怒鳴って電話を切りました。
 たしか,義母(妻の母)もこの互助会に入って積立を行っていたので葬儀はその会館で行いました。出席者は6名だったのに大きな会館で,葬儀費用は高かったのです。妻の場合は,実家近くの家族葬専門の会館で行いましたが,お坊さんの読経や戒名などを入れると100万円では全く足りませんでした。
 葬儀を安くするには,斎場での直葬を行い,戒名もなしで遺骨は一心寺で永代供養して貰う方法です。

 私が死んだ場合も家族が居ないので弟家族に直葬で妻と一緒の一心寺に納骨して欲しい。そして,故郷の墓の霊標に戒名(自分で作ります)を刻んで貰えれば,妻の戒名も刻んであるので夫婦であったことが永久に残ります。
 今日も侘しい日記となりましたが,今日の大きな出来事は勧誘電話でしたから。
2018年1月11日(木) 病院ディ
 今日は9時から総合医療センター診察日だったので目覚ましを6:50にセットし,昨夜は12時過ぎに就寝しました。しかし,前夜同様に午前2時半頃目覚めてしまいそれから眠れないので,テレビをつけて4時頃まで観ました。そして,再び眠ったのですが現実に近い悪夢を連続して見るので寝た気がせずに6:20に起きてしまいました。完全な寝不足です。
 今日は自宅を8:20に出たのですが,今期最強の寒波が大阪を襲っており気温は2℃となっていました。寒がりの私は,完全防寒で帽子を被り手袋をして地下鉄の駅まで約15分歩いたのですが,寒さで耳や顔が痛いのです。今日のような日には,バス停でバスを待つことが出来ません。

 8:50に診察受付を行い,先ず9時に予約している泌尿器科の診察待合に座って待ちました。いつもの様に,特別診察(医師が親戚)なので9時に診察室に通されました。医師から血液検査の結果説明があり「前回からは悪くなっていません。」と説明があり,「いつもの薬を出しましょう。」(前立腺と頻尿)と言われました。そして,次回は全身CTを行うことになりました。一応,肺,胃,腎臓,膀胱の検査ができます。
 私は泌尿科医に聞くことではないのですが,親戚だから「睡眠障害で困っています。」,「頻尿でトイレに行った後は悪夢ばかりで,またトイレに行っても夢の続きを見ます。」,「従って,横になっている時間の割に昼間は眠くて寝てばかりです。」と訴えました。すると医師は「眠たかったら,寝たら良いですよ。」,「余り夢のことを考えないでください。考えると,同じ夢を見ますよ。」,「また,時計を見ないでください。時間が気になり睡眠が浅くなります。」と言われました。
 この医師は,妻にすい臓がんが見つかってから亡くなるまでの妻や私の様子をよく知られている方です。

 泌尿器科の診察は9:10に終わり,次は9:30に予約を入れてある腎臓内科の診察です。診察呼び出しの掲示板を見ると,私の番号が表示されていたので慌て診察室の前に行きました。腎臓内科医からは,血液検査の結果から「腎臓は悪くはなっていませんね。」と悪いままギリギリ安定している説明がありました。そして,「今回の検査でアミラーゼの値が高くなっていますね。」と言われたので,私が「その原因は何ですか。」と聞くと,「すい臓か唾液腺の異常です。」と答えられました。
 私は即座に「すい臓がんですか。」と聞きましたが,「腎臓が悪いと高くなることがあるので,次回精密検査しましょう。」と言うことになりました。なお,この医師も妻がこの病院で,すい臓がんで亡くなったのを知っています。

 私は最近腰の右側が痛いのもすい臓がんの可能性が考えられるので,精密検査の結果で”すい臓がん”と言われたら延命治療はしません。
 すい臓がんは,がんの中でも致死率が高く苦しい延命治療をしても殆どが余命6ケ月であり,妻のように辛い抗がん剤治療や延命治療をする勇気は持ち合わせていません。 自宅療養や入院中の妻の症状を一番良く知っているのは私ですから,もっと容態が悪くなれば,この病院の緩和病棟で妻と同じように亡くなりたいのです。
 この医師にも,睡眠障害を訴えて,我慢が出来ないので良い心療内科を紹介して欲しいと言うと,相談窓口があるのでそちらで聞いてくださいと言われました。

 診察料の計算受付を済ませて,支払いまでの間に相談窓口に行きました。この窓口にはがん相談支援センターがあり私も妻の入院中にお世話になりました。
 相談窓口で心療内科を紹介して欲しいと言ったら,担当の方が来られて私の自宅近くや医療センター近くの心療内科を紹介してくれましたが,どのクリニックが良いかは言ってくれませんでした。内容的に難しい病気なので,患者と医師の相性があるようです。私も,1回目のクリニックは医師(変人?)だったので合いませんでしたから。
 取りあえず,医療センターに勤められていた精神科の医師が開かれたクリニックの電話番号を教えて貰いました。

 支払いを済ませて薬局に行き,薬を貰うまでの間にクリニックの電話すると,1月26日の14:30の予約が取れました。睡眠障害さえ直して貰えれば,もっとやる気が出ると思うのです。でも,歳をとった男の一人暮らしの寂しさは治療不可でしょう。誰もが老いて,健康寿命となり,介護を受けるのでしょうから不安は一杯です。

 薬を貰って,地下鉄に乗り自宅に戻ったのは10:50でした。2時間半で全てが終了しましたが,これに反して徒歩10分の整形外科医院の通院2時間以上は長いですね。イライラするのも当然でしょう。

 16時過ぎから,今年初めて整形外科医院に行き腰への注射とリハビリが終わると18時となっていました。非常に寒く,暗くなった住宅街を歩いていると,時々家の防犯灯が点灯して私を照らし,ビデオ撮影されているのでしょう。私は,その家の玄関の側を歩いたつもりがないのですが,感度が良すぎて私を照らすのでびっくりして腹が立ちます。治安が悪い世知辛い世の中になってしまったのです。でも,その家の中には温かい家庭があると思うと羨ましくも思います。

 暗くなり住宅街で照らされる防犯灯に意表を突かれ
2018年1月10日(水) 食欲不振
 昨夜は午前2時前に就寝しましたが3時半頃に,突然誰かに起こされたようで目覚めてしまいました。当然寝不足なので,眠ろうとしたのですが目が冴えて眠られません。仕方がないので,テレビをつけて眠くなるのを待ちましたが珍しく空腹感を感じました。夕食は7時前に食べており,食事後8時間半が経っているので空腹感は自然な現象でしょう。
 そこで,カップヌードルのミニをパソコンの前で食べて5時ぐらいに再度就寝しました。しかし,10時半ぐらいまで悪夢の連続で眠った気がしませんが朝食を摂りました。
 その後,いつもの様にテレビを観て居眠りばかりで眠くて仕方がなく起床できません。昼食も食べる気はしませんが,14時過ぎにやっと起床しました。(まだ,居眠りは続けられますが。)

 食パンとヨーグルトが無くなっているのでスーパーに買いに行かねばなりませんが寒いのと面倒くさく,”もうどうでも良えわ”と投げやりになります。
 また,毎日夕食に何を食べようか?食べたいものは,食べられないし,冷凍やレトルト食品は飽きてきたし,どうしよう?,食欲不振だし食べるのも面倒くさいなあと思い始めます。これらは全て,これまで妻がやってくれていたので自分で考える必要がなかったのです。

 妻が病になって自分で食事を決めるようになってから,腎不全が悪化したので食事制限を厳しくすると栄養失調の貧血となりました。栄養補助食品と増血剤の助けで何とか生活していますが,侘しい食事です。
 今日は今年初めて惣菜店に出かけて何か手料理を買うことにしました。
 今日は朝から雨が降っていましたが,雨の止み間の15時過ぎに自転車で総菜店に出かけ,サラダや煮物などを少量5種類(全部で720円・・・2日分です。)を購入しました。
 そして,その帰路でスーパーに寄って妻に供えるバナナ,リンゴ,お花2束,そして私用の食パン,ヨーグルト,ジュース,玉子などを購入して帰宅しました。
 帰宅後にリンゴを妻に供えると,前回に購入した2個入りの大きなリンゴがあったのを忘れており妻の写真の前はリンゴが多くなりました。そこで「リンゴが仰山あるから,頑張って食べや。」と言いました。私は面倒くさいのでリンゴは食べず,古くなると廃棄するだけです。
 また,冷蔵庫の中には4個入りを購入した玉子のうち2個が期限切れとなっていたので廃棄で,今日も一番少ない単位で売られている玉子(ヨード卵光:4個入り)を購入してきましたが,タンパク量が多いので毎日食べられません。

 玉子を始めとして,食品や洗剤などの種類は未だに妻の物まねで購入しています。生活も妻が敷いてくれていたレールの上で行っています。私には何もできないのですが,私が買い始めたのは妻に供える花だけです。
 生活習慣は妻が亡くなってから,少しずつ変えてきました。夜間頻尿が酷いので夕食時間と入浴時間を30分早くしました。その日使用した食器は,必ずその日の内に洗います。(妻の仕事だったのですが,毎晩酔っ払って寝るので翌朝洗っていました。)なお,横になる時間は非常に長くなりました。
 それでも,夜間頻尿はあまり改善できないので今日の入浴は夕食前の17時に入ることにしました。これまでの私の生活では,入浴は夕食の後だったのですが,世の中の人はどちらが先なのでしょう。
 生活習慣を変えたら,この無気力感も何らかの変化が出るのではと思い,自分の道を探そうと思います。

 何らかの生活習慣変えたくて自分の道を一人探しぬ
2018年1月9日(火) 情緒不安
 5日に補修した歯のかみ合わせが悪く食事をするのが辛くなってきました。それでなくても食欲がないのに,精神的に苦痛で嫌になってきます。0.数ミリの誤差ですが歯のかみ合わせはシビアなのです。
 もう我慢が出来ず10時過ぎに歯科医院に予約を入れ,17:45に取れました。

 今日は総合医療センターの泌尿器科と腎臓内科の事前採血日であり11時に自宅を出ました。妻が入院中の2~3月は雨が降らない限り体調が悪くても毎日その病院まで自転車(約20分)で見舞いに通っていましたが,現在は転倒の危険性を避けるためにバスに変えました。直ぐに転倒するようになったので怖いのです。
 バスに乗って病院に向かっていても,妻が亡くなった病院なので精神的に辛く気分は落ち込んだままです。そして,病院では嫌いな注射(採血)であり,これまで150回以上行っていますがだんだん怖くなって来たのです。針を刺したときの痛さと,血管に突き刺される恐怖が増してきました。

 昨日は領収書の整理で長時間畳の上に座っていたので腰痛が酷くなり,歩くのが痛いのです。これも椎間板ヘルニアが原因で簡単には治らないので嫌になってくるのです。妻の入院中も腰痛が酷く,腰を庇いながら恐る恐る歩いている私の姿を見て看護師が哀れがり,気遣ってくれていたのです。余命が短い妻を見舞う老人は余計に惨めに見えたのでしょう。今週は痛くて嫌なのですが整形外科医院で腰に注射をうつことを考えると憂鬱になります。また,また患者が多く待たされるのでイライラして精神衛生上も悪いのです。

 精神的に弱くなってしまって,少しでも嫌なこと,痛いこと,怖いことがあると不安になってしまい,何もかも嫌になってしまいます。これまでの長い人生に於いて,もっと大きな心配事(妻の死が最大だが),怖いことや痛いことがあったのですが,これほど弱くはありませんでした。
 一般に歳をとると色んなことを経験するので人間的に強くなると言われているのに。

 吾が妻を毎日見舞いし病院へ今では自転車乗るのが怖し
 注射針しなびた腕に突き刺さる恐怖に怯う採血日なり
 日に日にと日照時間伸びれども心の暗き時間は長し
2018年1月8日(月:祝) 初来客?
 今日も気力がありませんが,寝てばかりもしておられません。今年に入って気になっていた”国民健康保険高額医療費申請”(月の医療費が8000円を超えると,超えた分が帰ってきます。)のために昨年の医療費の領収書を月毎にまとめる作業をしました。
 病院にばかり通っていると,沢山の領収書が溜まるので整理するのも面倒くさいのです。
 そして,区役所から送付される”申請手続きの案内書”は半年遅れで送付されるので,一昨年分も用意して1年分を請求することにしています。今回の申請金額は5.6万円と少ない金額ではありません。
 しかし,70歳以上の高齢者の8000円の限度額は市民税・府民税非課税世帯(年金収入が少ない)の条件が付いていたので,妻が亡くなって2年半が過ぎた秋からこの税金が必要となりました。配偶者控除や身体障害者(妻)控除が無くなったので,課税されるようになりました。
 多分来年の申請金額は限度額が14000円/月となったので殆どなくなるでしょう。これも,医療費削減の政策の賜物です。

 不要になった領収書をシュレッダー処理していたら16時前にインターホンが鳴りました。来客や宅配の予定もないので誰だろうと画面を見ると婦人警官が立っていました。老人の一人暮らしの家を定期的に訪問する安否確認だったのです。扉を開けて対応すると,婦人警官は名簿を見ながら「お変わりありませんか。」,「この方(緊急時連絡先)はどなたですか。」と聞かれたので「弟です。」と答えました。そして,私は訪問に対して「有難うございました。」と感謝をしました。
 今年の我が家への初来客であり,誰であれ寂しい我が家を訪ねてくれる人は有り難いのです。一人で暮らしていると”喜怒哀楽”と言う感情も薄れてきます。

 今日は成人の日で,各ニュースではその様子が報じられていました。私の成人式は50年以上前になってしまったのですが,その時の私には未知の明るい未来がありました。その時には,70歳を超えて妻に先立たれ一人暮らしになるとは想像もできませんでした。
 人生には何が起こるか判りませんので,報道では新成人の方の大半が未来に希望を持っていないようですが,平均的に後60年の人生で有意義な生活をして欲しいです。
 AIに自分の職を奪われる不安もあるようですが,AIには””と言う感情は絶対に持てないので人間の方が勝っています。

 「遅いなあ」この3年でやせ細り待つ限界で寒さ耐えれず
 未だに,妻の帰りを待っています。3月末が近づくにつれて,今年も命日反応が強くなります。最近は,頻繁に闘病中の妻の夢をみて,目覚めてからは落ち込みが大きいのです。
 久しぶり一人住まいを訪ねしは安否伺う警官なりき
 感情を表す言葉数あれど”喜怒哀楽”の怒哀は不要

 
2018年1月7日(日) 3年目の苦悩
 今年に入ってから夜になると一人暮らしが寂しくて,いつもの様に写真の妻に話しかけますが当然返事がありません。精神的に堪らなくなり精神安定剤の服用回数が増えました。70年近く,いつも誰かと生活していたのですが一人暮らしが3年目に入ると”寂しがり”(弱い)の私は不安で落ち込むのです。
 そして,昼間は横になっている時間が長いのが要因の1種かもしれませんが,眠りが非常に浅く悪夢ばかり見ます。
 今日は9時半に起きたのですが,睡眠時間は6時間ほどで眠くてたまらずテレビをつけたまま11時頃から居眠りです。眠りは浅いので熟睡ではなく,しばしば目覚めますが眠くて起床できません。
 ようやく起床できたのは14時前でしたが,昼食を食べる気力もありません。全く生活に対して無気力になってしまい,15時過ぎから散歩に行こうと考えていたのですが眠くて又もや横になりました。
 これは,世の中で言われる”高齢者の閉じこもり”そのものなのです。

 妻を亡くして2年目の去年の今頃は,野鳥撮影に出かけたり,洗濯機や電子レンジの買い替えを行ったりで,小さな目標もありました。妻が余命宣告されたフラッシュバックで落ち込んだ日が多かったのですが,今年はそれとは異なる無気力感なのです。
 その対策として,「毎日お風呂に入る。1日2食以上食べる。野菜をいっぱい食べる。それから毎日外出すること。」とよく言われますが,私にはその気力が無いのです。
 このような無気力な私を妻が見たら「奥さんが悲しんでいますよ。」と他の人から慰め?られても,もうそれに反応する時期ではなくなりました。
 
 この日記も妻にすい臓がんが見つかって以来,殆ど毎日書いてきましたが最近書く気力も失せる日があり,昔の”気まぐれ日記”のように日常生活に変化があった日にのみ書くようになるのでしょう。
2018年1月6日(土) 普通の生活
 昨日よりましだが今日も寒い日でした。昼前に溜まっている洗濯物を洗濯して,昼からは少し掃除をしました。
 主なき妻の部屋と居間が中心の掃除となりましたが,妻がまだ家に居ると思うから掃除をするのです。15時からは,買い物にスーパーに出かけました。
 いつもの様に妻のお供えが優先で,バナナ,ミカン(1袋で量が多すぎる。私は食べないので廃棄となります。),私用にレタスサラダ,ヨーグルト,詰め替え用のコーヒ,イチゴジャム,ミネラルウオーター2本などを購入して帰宅しました。
 これが普通の生活なのかもしれませんが,私には普通と思えない異常な生活なのです。一人の生活は嫌なのです。

 今日はニュースで星野仙一氏(70歳)が妻と同じすい臓がんで4日に亡くなった事を報じていました。やはりすい臓がんは,死亡率が高いがんであり星野氏は2016年7月に”すい臓がん”が発見されたそうで約1年半で亡くなられたそうです。妻の場合は,すい臓がんが発見されてから3ケ月で他界して,66歳でした。絶対に,早すぎますよね。

 「寒いなあ」一人我が家でぼやくとも聞き入る人ぞなきぞ悲しき
 「寒いなあ」一人ぶつぶつ呟くと人居ぬゆえの寒さましけり

2018年1月5日(金) また始まった
 今日も相変わらずの不眠症(睡眠の質が悪い)で眠くて起床が出来ず布団から出られません。特に今朝(10時過ぎだが)は寒く外気温度は3℃少しで,暖かい自室も枕元の温度計は17.1℃(普通ならエアコンなしでも20℃以上)と大阪で年に数日とない酷寒でした。
 2日ぐらいから,昨年2月に自転車で転倒した時に折れた前歯(差し歯)の修復は終わったのだが,根が弱って来ているので10月に続いて緩みだしました。10月には歯茎を切って大修理?をしたのに3ケ月も持たなかったので,もう抜いて入れ歯にしなくてはならないのでは嫌になってきました。

 取りあえず,歯科医院が診察を始めるのが5日からなので,10時半に電話を入れて17時に予約を取りました。
 その後朝食を摂ったのですが,眠くて・寒くて布団に入ったままテレビを観ていると居眠りをします。結局,起床する気が起ったのは14時を過ぎていましたが,もし今日歯科医院に予約を入れていなかったら1日中横になっていたのでしょう。何する気力もなくなってしまいました。
 16時半過ぎに歯科医院に出かけるために自宅を出ましたが,苦手(怖い!)な医院のなので足取りは重く,滅茶苦茶寒かったのです。歯科医院では,何とか歯を接着?してもらいましたが,いつまで保つやら。

 今年も病院通いがまた始まりました。もし,私が病院に行かなければ多分自宅にこもりきりで寝てばかりでしょう。
 来週からは総合医療センターに2回(火,木曜日),整形外科医院に週に1回(注射が痛くて嫌いだが,腰痛が辛いので),中旬には内科医院眼科医院(12月に定期検診だったが,面倒くさく延ばしていた)に行かねばなりません。
 自宅から一番近いのは眼科医院の徒歩10分足らずですが,歩けなくなったらすべて自力で行けなくなります。年々悪くなる体調で,通院も心配事になっています。
 何でも自分一人でできて生活している人には理解できないでしょうが,健康年齢は怪我でもすると年齢に関係なく非常に早く来ますよ。例えば,脚を骨折して”全治3ケ月”の診察となったら,リハビリを含めて1年近くまともに歩けないので,一人での生活は困難です。
 私の様に生きて行く目的もないのに,病院にばかり行っているのは医療費の無駄使いでしょうね。

 私が年賀状を出した人の殆どから年賀状が届きました。しかし,数人からは去年から年賀状が来なくなったので,私も来年から出すのを止めます。多分高齢のために年賀状をかけなくなったか,亡くなった?,或はもう縁を切りたい人なのでしょう。
 年賀状の中で,昨日逢った小学校6年生に姪孫からは添え書きとして「いつもありがとう。塩分とりすぎちゅうい。」と私の体を気遣ってくれているのが,BEST年賀状でした。
 また,年賀状には私の会社員時代の部下も定年の報告が増えて自分の年齢を再認識させられました。なお40代の元部下(男女)数名から「また,お逢いしたですね。」,「食事にでも行きましょう。」と添え書きがあり社交辞令とは判っているのですが,その心内が非常に嬉しかった
 現役時代の私は直ぐ怒鳴り,相手にしにくい変人で仕事を投げ出して早期退社した元上司なのに忘れないでいてくれるのです。

 彼らに電話を入れて話をしたい衝動にかられましたが,70歳を過ぎた元上司の老人からの電話は迷惑だろうと我慢しました。しかし,私が一人暮らしの寂しさに我慢ができなくなった時には,気力を貰うために電話を入れて食事に誘うでしょう。私は彼らに出会うと,頭の回転速度は遅くなっていないと思うので現在の年齢を忘れて現役時代の私に戻ると思います。

 年賀状”お逢いしましょ”の添え書きの社交辞令に嬉しくなるぬ
2018年1月4日(木) お年玉
 今日はが入っている特養に行く予定をしていました。お土産に焼き菓子を用意していたのですが,母がアナゴ寿司を好きだったのを思い出して途中で買うことにしました。このアナゴ寿司は,シャリに対して3倍以上の大きなアナゴを使用した握り寿司で,亡き妻がお正月や我が家の記念日に買って来てくれていました。

 昼過ぎに自宅を出て京阪電車京橋まで行き京阪モールの食料品街でアナゴ寿司1箱(6貫入り)を購入しました。そして,JR環状線天王寺に出るのですが,まだ会社に休みが多いのか車内は平日のこの時間と異なる人種?が沢山乗っていました。若い人達や夫婦連れの方達を見ていると,急に一人暮らしの私が寂しくなりました。
 また,今年も”もう妻は居ないのだ”と痛感し,精神状態が暗く沈みこみました。 私は,幸せそうな方達を目にするのが苦手で,土日の外出は避けていたのですが,寂しがり屋は治りません。。

 天王寺地下鉄に乗り換え,特養の最寄駅で下車をしてバスに乗り換えるのですが,精神状態が落ち込んでいるので厚着をして自宅を出たのですがバス待ち間は寒くてたまりませんでした。ただ,気温は7℃でしたが。
 13時半前に特養の母の部屋に行き扉を開けると,母は私に気付き「明けましておめでとう。」と言いましたが,私は「来たで。」しか返事をしませんでした。
 母は私が持参したアナゴ寿司を「美味しいわ。」と喜んで食べてくれ,昼食後であまり時間が経っていないのに3貫を平らげました。残り3貫は,私にはタンパク量が多いのですが食べました。2014年のお正月には妻も一緒に食べていたのに。

 14時半に特養を出て実家に行くためにバス停に向かいました。ここでもバス待ちの5分ほどの間が寒くて仕方がありませんでした。
 実家に着くと,丁度が正月休みを利用して魚釣りに行っていた串本から帰った所でした。かなりの成果があったのようで,私に「刺身にするから持って帰るか。」と言いました。私は「魚はタンパク量が多いので食べられへん。」と断りました。昨日も刺身を食べたばかりだし。
 暫くすると,弟の長男の子供二人(6年生の女の子と3年生の男の子)を連れて実家に来ました。私はお年玉を用意していなかったので,弟の嫁からポチ袋を貰い,お年玉の相場を聞いてみました。去年までは,母が私の分までポチ袋を用意して,この二人に渡してくれていました。
 私は,昨年まで母にお年玉として10万円上げていましたが,昨年2月に養護施設に入ったので今年から止めました。盗難の危険性が・・・

 子供のお年玉は,弟の嫁が3000円を包んだとのことで,私も二人に同額を上げました。
 二人とも喜んでくれて,お母さんに「**兄ちゃんから,お年玉貰ってん。」(我が家系では,年上の人を兄ちゃん姉ちゃんと呼ぶ習慣があります。)と報告くしているのを観て,私も嬉しくなりました。
 我が家には子供も居なく,尚且つ一人暮らしの私にはお年玉を上げれる子供が居るだけで嬉しいのです。長女は4月から中学生となるので,入学祝を忘れないようにしないと。最近はすぐに忘れるようになりましたから。

 実家でも寒いので15時半過ぎに実家を出て,バス・地下鉄を乗り継いで自宅に帰りました。実家は木造建築なので寒いのですが,自宅はマンションで暖かくエアコンも26℃設定で入れるので温室状態です。本当に寒がりになったので,当面野鳥撮影には出かけられないでしょう。

 お年玉上げれる相手いるだけで歓び感じ今年も明けぬ
2018年1月3日(水) 人の賞味期限
 年末に放送されていたNHKの紅白歌合戦など全く観る気がなくなりました。子供の頃(大学卒業まで)には歌合戦をラジオで聞いていました。その理由は,家にテレビがなかったのと自宅が飲食店をやっていて,大晦日は年越しそばで日が変わるまで忙しく,裏方をやっていた私にはテレビがあっても観る暇がなかったのです。
 最近の紅白歌合戦の歌手の名が判らない,その歌い方が日本人かと思われる巻き舌と変な抑揚で聞いていると虫唾が走ってくる,そして一番大きいのはジャリ(私から見れば)が人生を悟ったような歌詞を歌っているからです。阿保ちやうか!と思うようになったら,もうこの手の番組は観ません。

 歌は決して嫌いでないのですが,聴くのは演歌か童謡が好きなのです。BS・心の歌などは最高ですね。年末になると毎年放送される,懐かしの歌謡曲,昭和の歌謡曲は観ます。でも,往年の歌手が出てくると賞味期限切れで人前に姿を見せてほしくなかった,昔の綺麗な印象のままでいた欲しかった思うことが多々あります。
 歳をとると誰もがいろんな面(外面も)で劣化してして,無残で残酷な姿に変貌してしまうのですね。先日テレビに出ていた浅丘ルリ子などは,昔のあの可憐な面影が殆どなくなって化粧で誤魔化している様が気の毒でした。
 なお,何故人気があるのか判らない,トドの溺死体のような体型をしたDx・Mも化粧でオカマ?を演じているが,NETに流れている素顔は気持ちの悪いおっさんですね。
 人のことは言えず,自分自身も古希を超えてから(妻が亡くなってから)鏡を見て老化に情けなくなります。人の賞味期限・消費期限はバラツキがありますが,65~70歳が賞味期限ですね。妻は賞味期限前に亡くなったので若いままであり,私との年齢差がどんどん広がっているのが悔しいです。
 
 相変わらず睡眠障害で,この3日間は殆ど横になっていました。今日は散歩に行かないとと思っていたら,バター,ヨーグルト,ジュースなどが少なくなったので15時過ぎにいつものスーパーに自転車で出かけました。しかし,スーパーにしては珍しく営業は4日からとなっていました。
 仕方がないのでいったん帰宅して,散歩の帰りに他のスーパーに寄ることにしました。
 腰痛が酷いので今日の散歩距離は2kmとして,スーパーに立ち寄り必要なものを購入後に,久しぶりに刺身を食べたくなりました。しかし,4~5切れ入りの小さなパックは置いてないので,おつくりセットを購入して妻にも食べてもらうことにしました。相変わらず,このスーパーは一人暮らしの老人には不親切です。
 なお,正月前に妻に飾ったチューリップが頭を下げ始めたので,新しい花も買いました。

 人はみな賞味期限が決まってる消費期限はこの世の別れ
2018年1月2日(火) ご長寿
 昨年末録画しておいた”爆笑!明石家さんまのご長寿グランプリ2017を見ました。CMが嫌いなので,気になる番組は録画してCMカットで観るのです。
 この番組は『さんまのSUPERからくりTV』としてTBS系列で1992年4月26日から2014年9月7日までの毎週日曜日の19:00から放送されていた中の人気コーナーである,”ご長寿早や押しクイズ”の2017年の特別番組でした。

 私は,この”早や押しクイズ”が大好きで,毎回観ていて面白くて馬鹿笑いをするので,から「何がそんなにおかしいの。」とよく言われました。
 昨年末もご長寿の珍解答迷解答に,涙が出るほど笑いこけました。妻が亡くなってから,初めての大笑いでした。私は,笑いを忘れていませんでした。
 しかし,出場者の中には75歳前なのに”ご長寿”と分類され,珍解答を出される老人を見て,私もこのような人になるのかな怖くもなりました。
 ご本人は真面目にクイズの問いに答えられているのですが,その答えが的から大きく離れた珍解答なのです。
 認知症だとは思えず,自分は正しいのだと信じての答えなので非常に真剣味があり,面白いのです。

 そして,その番組の中の”ご長寿ビデオレター”は過去の自分への爆笑&感動メッセージを贈るものでした。それを観ながら私は,現在の私が28歳当時の自分へのメッセージを考えてみました。
(私)へ。君は(妻の名)と結婚しようとしているが,子供に恵まれずは君より早く66歳で亡くなるのを教えよう。そして,今君が見ているようなみすぼらしい老人になるのを覚悟してYと結婚するのか。】をメッセージとして贈ったら,それを知った私はどのようにしたでしょう?
 綺麗ごとではなく,あなたらどのようにしましたか。現在の苦しみに耐えられますか。

 昔からタイムスリップもので,過去の自分に出逢う話が有るが「歴史を変えることが出来ない。」が結論だったと思います。しかし,自分の悲しい・暗い未来は教えてほしくないですね。判らない未来があるのだから,希望があるのですから。
 なお,私は妻(お見合いで)と結婚するにあたって,から少し反対されましたが,それを押し切って結婚しました。まさか父は現在の私の姿が見えていた・・・・・

 今年も私の日記は暗い内容で始まっています。今夜も,昨夜炊いた0.8合のお粥があるので妻に供え,妻に最後に食べさせて上げた海苔の佃煮を添えました。そして,私はお粥と腎臓食用の冷凍のさんまの照焼き風御膳でした。我が家には,お正月料理など無関係です。0.8合のお粥は,妻と2日間で食べ終えます。
2018年1月1日(月) 平成30年の始まり
 月が変わり新しい年号となったのでお正月と言うのでしょうか。私には,昨日までと全く精神的は変わっていませんが。
 今年の正月は,生まれて70年以上で初めて一人で過ごす寂しい正月となりました。
 結婚前までは実家に居たので一人ではなく,結婚後には常に妻が居ました。その妻が2015年3月に亡くなったのですが,2016年,2017年正月は母と実家で迎えました。その母も,今では介護施設に入っているので一人で私は自宅に居るしか方法はないのです。

 妻が健在な時の元旦には,妻が朝から風呂を沸かしてくれるので入浴し,新品の下着を用意してくれるので,それを着て朝食を摂ります。
 ワインで新春を祝う乾杯をして,お雑煮,おせち料理を頂きます。私の腎不全が酷くなって来てからは,お節料理の内容が変わってきました。
 なお,子供の頃の想い出は,母が「お正月から着るんだよ。」と新しい服などを用意してくれていました。現在では,新しい服は妻の居る一心寺にお参りに行く時に着ますが。

 昼食後は妻と二人で,徒歩20分ほどの氏神に初詣を行い,その足ので実家に帰り父母と親戚の人を呼んで夕食を摂っていました。
 私は母に着物を2着作って貰っていたのでお正月にはそれを着るようにしていました。数十万円の大島紬の着物は,誰かに引き継いでほしいですね。もう,着ることがありませんから。

 正月や冥土の旅の一里塚妻の元にはあと何里かな
 正月や早く行きたや妻のもと一人で迎うに淋しすぎたり
 生まれきて初めて迎う一人での正月が来て寂しさませり


 今夜は我が家の記念日でのご馳走である,魚沼産コシヒカリでお粥を炊き妻に供えるのと,私は玉子うどんを作って夕食となりました。
 年々体力が低下して,いろんな病気も悪化しているので自由に動ける時間は長くないと思っています。従って,今年は体力が許せば”好きな事”をやろうと考えています。でも,具体的に好きな事が眼に浮かばないのです。ただ言えるのは,それは食事でないことです。