2013年8月30日(金) 通夜と葬儀
 昨日は夕方より叔母のお通夜に出かけました。場所は富田林から2駅先の葬祭場です。金剛山に行くのに富田林までは行ったことがあるのですが,葬祭場へはまったく地理的に不案内でありNET場所を調べました。すると,駅から徒歩4分と記載があったので,簡単に判るだろうと考えていたのです。
 家内が出かけており,帰宅を待ったので私が家を出たのは17:50です。お通夜は19時からなので間に合わなかったのですが,急いで京阪電車の駅に向かいます。京橋で京阪からJR環状線に乗り換えて天王寺に出るとですが,丁度会社員の帰宅時間と重なりすごい人の波です。少し現役時代の人波を思い出したのですが,当時と違う光景は服装の乱れ(
会社員らしい服装をしろ!会社の顔である認識がないのでは)と老若男女を問わず8割ぐらいの人がスマホ画面を見入っている狂った姿なのです。こりゃアベノミクスも関係が無い堕落した日本人の姿ではと感じました。自己啓発をしろ!!
 天王寺で近鉄電車に乗り換えるのですが,19時前の帰宅ラッシュ時にこの路線に乗ったことはなかったので人の多さに驚きました。会社員は通勤だけで疲れますね。19:20にやっと最寄り駅に到着して,NETで調べて頭に書き込んだ地図を思い出しながら歩き出しました。駅から4分ならすぐに判るだろうと思ったのが間違いで,私は他の人より
優れた方向音痴なのです。駅から10分近く歩いたのですが葬送場が見えないので,開いていた弁当屋ので女店員に「**は何処でしょうか?」と聞くと,怪訝な顔をして「判りません。」とのつれない返事です。えっ!とんでもない方向に歩いてきてしまったのかと,暫く歩いていると道路を渡る女子高生の姿が見えたので,薄暗闇だったのですが「**は何処ですか?」と聞いてみると,暫く考えて「案内します。」と答えてくれました。口頭で説明するのが難しい場所まで私が迷いこんだようで,その女子高生は自転車を押しながら暗い住宅街を案内してくれました。普通なら,不審者と思われ警戒されると思うのですが,汗をかきながら葬祭場を探している私がよほど哀れに見えたのでしょうか。いや,非常に親切な女子高生(歩きながら話をしていると,部活で遅くなったそうです。)だったのです。しかし,日本も物騒な時代となったので注意してくださいよ。見知らぬ人に付いて行かないように。
 住宅街を通って葬祭場が見える場所まで私を送ってくれて,女子高生は自転車で走っていきました。案内してくれて本当にありがとう!気持ちの優しい子でした。親の教育が良いのでしょう。
多謝多謝です。20分で歩いて,やっと葬祭場に付きました。どうやら1筋間違って歩いてしまったようです。

 お通夜は一般焼香が終わりかけていましたが,何とか間に合いました。その後,お棺の中の叔母の顔を見ると,綺麗に死に化粧がされており,若いころから可愛い顔をされていたのを思い起こされました。それまで元気に暮らされていたのに,25日に突然肺炎を発症され意識不明となり,5日間苦しみながら息を引き取ったのですが,
安らな顔で良かったです。23時となったので,弟の息子に自宅まで送って貰いました。電車で2時間ほどかかったのですが,高速を利用したこともあって30分ほどで帰宅できました。

 今日は葬儀が12時からであったのと,母が叔母の死去で気落ちしていないかと心配で家内と実家に寄りました。母は,順番からいったら自分なのにと叔母の死去を悲しんでいました。実家からは弟の車で葬祭場に行きました。お坊さんの読経や焼香が終わり,一番苦手な別れの義の始まりです。お棺の中に花を入れて,顔だけを見えるようにしていっぱいの花で飾ります。私は,幼年期からお世話になった叔母さんに「ありがとうございました。」と心の中で言いながら言いながら花を添えました。
 その後斎場で荼毘に付され,15時半からお骨上げです。2時間前までは,物は言えないものの綺麗な顔をされていた叔母さんが無残な姿となっていました。お骨上げの最中に,当然稲妻が走り大雨となりました。これが叔母さんの別れを告げる
涙雨だったのでしょう。
 初七日も済ませ,弟に自宅まで送って貰って自宅到着は17:30でした。あっという間に,入院から仏様になられました。

 今日も暗い日記です。しかし,親切な女子高生のことを書いた私の心情理解していただけたでしょうか。
2013年8月29日(木) 永眠されました 
 朝8時過ぎに弟から電話が入り「今日の午前3時に叔母さんが息を引き取った。」とのことでした。昨日,私が病院を後にしたのは5時前でしたが,私を待ってくれていたのか昨夜の12時位から容態がますます悪化して,午前3時に永眠されたのでした。享年は84才で母より8歳も若かったのです。
 亡くなった叔母は母の弟の嫁で,母の義理の妹となりご主人が亡くなられて10年以上母の生家を守ってこられました。戦前の,母の生家は裕福な家庭だったそうですが,大東亜戦争で日本が敗戦後に没落して,いろんな商売をして失敗を繰り返している中にお嫁入りされました。私は小学生だったのですが,その結婚式に列席していたのを覚えています。
 我が家同様に戦後の混乱期を頑張られて2人の息子を育てられましたが,次男が16歳で免許書を取った当日に単車に乗っていた際,タンクローリーに巻き込まれ事故死と言うつらい経験もされていました。

 実家から近かったことから,母の母(祖母)が健在な頃(小学校に行く前)から大学を卒業するまでよく遊びに行かせてもらいました。大変お世話になった叔母さんなのです。
 叔母さんは毎月父の月命日に仏壇にお参りに来てくれていました。図らずも昨日の8月28日は父の命日であり,叔母は病床から魂だけが父の仏壇にお参りに来られ,その後父と同じ場所に行かれたのでしょうか。

 弟が嫁の実家に帰った正月やお盆には母と一緒に夕食を摂ります。今年の5月6日には叔母さんも呼んで夕食を摂りました。お盆もと考えたのですが,まさかこのような事態になるとは想像もできず悔いが残ることです。
 母は,妹のように週に2〜3回電話で色んなことを話していたようで,叔母が亡くなったことに非常に気落ちしています。7月に続いて今月も叔母の訃報を聞くことになり,人生の儚さを感じずにはいられません。
 通夜は今夜なので,夕方から出かけます。 
2013年8月28日(水) すごい生命力 
 最近いろんな考え事が多く眠りが浅いうえに,夜間頻尿でトイレに行くとそれ以降眠られず睡眠不足が続いています。そして,1日の通院時にも医師から言われたのですが,腎不全により血液が正常に作られず貧血状態で「昔なら輸血ですが,造血剤?の注射で治療します。」,「但し,その注射は高価です。」(他の人に聞いた話では1回6000円とか・・・我が家で,これ以上医療費が嵩むと!)とのことで,もう暫く様子を見ることになりました。(時間の問題だと思うのですが)貧血になると,非常に眠くなるそうで,私の場合には不眠症が重なるので余計に辛いのです。昨日は朝から病院に行って,昼前に帰宅したのですが体がだるく眩暈がするので叔母さんの見舞いにくことが出来ず寝込んでいました。

 今日はお盆にのために買ってきたズボンのゴムが強すぎるとのことで,それを半値以下で他の人に売り,新しく購入したズボンを持って昼から実家に帰りました。しかし,そのズボンはMサイズで,母には少し小さかったので百貨店で交換して貰うことにしました。(母には出来るだけのことはします。)そして,実家から叔母さんが入院している病院は近いのでタクシーで行こうと考えていたら,が車で行くとのことで一緒に出掛けました。
 その病院は,その昔建物が古く見舞いに行くと気持ちが悪い,入院患者は夜中にトイレに行けないお化けが出たらしい・・・私は,蛇もお化けも大嫌いで,自分が入院した病院はお化けが出ない病院としましたから)と言われていた日赤病院でした。しかし,現在はそのような病院ではなく綺麗に建て替えられて名前も大阪赤十字病院となっていました。叔母さんは救命救急センターに運ばれて,意識不明のまま救命病棟の個室に入っていました。25日に運び込まれて以来従兄弟(60才)が付き添っており,その息子も来てくれるので多少寝る時間もあるそうですが,24時間付き添っています。意識不明で,この病院に運ばれた時は肺炎で灰が真っ白となっており,自発呼吸ができない状態で苦しそうだったので,医師からは「苦しみを取るためにモルヒネ投与の手がありますが,この場合は24時間も持たない。」との話があったそうで,従兄弟は迷った挙句に「苦しむ姿を見るに堪えないので,モルヒネ投与をお願いします。」と決断したようです。そこで,医師から「顔を見たい方は呼んでください。」と最後通告をされたそうですが。

 叔母さんは,この病室に入ってから今日で4日目で,私が見舞いに行った時も叔母さんは人工呼吸器につながれて苦しそうな呼吸を繰り返していました。月曜日から尿も出なくなり腎不全も併発しており,いつ亡くなっても不思議ではない状態,いやこれまでもっているのが不思議な状態とのことでした。病室には従兄弟夫婦とその息子が来ており,今日は入院以来初めて11時ごろに叔母さんが目を開き,自分達を見たと話してくれました。従兄弟が叔母さんに「**さん達(私と弟の名前)が来てくれたで。」と言うと,叔母さんの目から涙がこぼれたようでした。意識不明の状態で苦しんでいますが,我々のお見舞いに気付いてくれているのかもしれません。
 土曜日に叔母さんは母と電話で話をして,「少し風邪気味」とのことでしたが,日曜に肺炎で意識不明になるとは誰も想像が出来ませんでした。付き添い疲れの憔悴しきった表情で従兄弟は叔母さんと離れて住んでいるので「母を看護できる時間があって良かった。」と言っていますが,叔母さんは従兄弟にお礼の言葉を言うことができません。本当の親孝行とは,元気な時の親に出来るだけのことをしてあげることなのです。意識不明になってからでは遅すぎます。

 これから先が読めない状態での付き添いは非常に疲れるでしょう。その後に待っている通夜や葬儀でその疲れは頂点に達します。私の祖母の場合も,父は母である祖母の付き添いのためにほとんど寝ることが出来ずに病院に詰めていたので,葬儀の時にはその疲れで寝込んでしまいました。またもや,我が家に当てはめると家内がこのような状態になった場合には私が付き添うことになりますが,私一人では精神的にも肉体的にも持ちません。このような場合に,家族の有難味が判るのでしょうね。今更どうしようもありませんが。

 5月以来体調が良くないのも原因で暗い日記が続いています。楽しい日記となるような出来事がないのです。何か楽しいことはないでしょうか?大阪城でコルリが沢山入ったと喜んでいる幸せな**もいますが,私は撮影に出かけたとしても進化がないので楽しいとは思わないのです。やはり楽しいと感じるのは,私が一番嫌いな馬鹿(阿保ではありません,進歩のない人,それを疑問に思うことができない人・・・社会人としては進歩のための自己啓発をしない人)になったら幸せなのでしょうね。
2013年8月26日(月) 他人ごとではない
 朝にから電話が入り,実家の近くの叔母さん(母の弟の嫁)が救急車で日赤病院に運ばれたとのことであった。日曜に従兄弟(叔母さんの息子:長男)が電話しても,叔母さんが電話口に出ないとのことで様子を見に行ったそうだ。(80歳を超えて一人で住んでいた。)そこで,ベットの上で意識不明となっている叔母さんを発見して,救急車を呼んだそうだ。
 病院に着いても意識は戻らず,レントゲン検査の結果で原因は肺炎をこじらせたとのことです。老人の死亡原因は肺炎が多い。(私の父もそうだった。)
 意識が戻らず,医師からは「顔を見たい方は呼んでください。」と最後通告をされたようです。救命救急の個室ICUに入っており,親族だに見舞いが許されています。
 連日,テレビで熱中症による老人の孤独死が伝えられていますが,一人暮らし或は老老介護では何が起きるかわかりませんね。我が家も他人事ではありません。
2013年8月23日(金) またもや悪夢?
 昨日,S社時代の友人よりメールが入り「コンデンサの絶縁距離について教えてほしい。現在採用中の1000Vコンデンサ端子の空間距離,沿面距離ともに6mmしか無いのだが問題ないか。」の問い合わせであった。
 どのように返事しようかと考えながら昨夜は眠りにつきました。最近は,仕事の夢悪夢?)をほとんど見なくなっており安堵していたのですが,問い合わせが仕事モードのトリガーとなったのか,現役時代に戻って非常に現実的な夢を見ました。
 性格が災いしてか,いつも見る夢は楽しい夢ではなく,疲れる夢や嫌な夢なのです。昨夜は3相変圧器の結線方式についてであり,苦手であったベクトル記号を基に部下に説明しているのです。変圧器の結線方式の一般的なものは,スターとデルタ結線なのですが,特殊変圧器として千鳥結線,辺延デルタ結線があり,高調波対策用と行う結線方式なのです。変圧器巻線の巻始めや巻終わり図示しながら説明しているのですが・・・・非常に疲れました。完全に現役時代に戻っていました。
 お蔭で睡眠が浅く,寝不足となったので起床は10時を過ぎていました。

 昨日来,「夢は夜ひらく」を歌った,昭和の歌姫の藤圭子自殺したニュースがテレビで流れていました。お人形のような顔をした美人の歌手で,世の中を拗ねたような歌い方にファンとなっていました。
 「圭子の夢は夜ひらく」の2番の歌詞で「十五 十六 十七と私の人生 暗かった 過去はどんなに 暗くとも 夢は夜ひらく」が好きで,自分の幼年期の貧乏生活とダブらせていたのでしょうか。
 なお,美人過ぎる藤圭子の目は尋常の人の目とは思えず,一芸に秀でた天才的な人は自分で人生の幕引きをしたのですね。
 私の夢は,「悪夢が夜ひらく」なのですが・・・なんのこっちゃ!

 話が逸れましたが,友人にメールの返事をしました。「”電気機器用コンデンサ”としてJIS C 4908(2007)があります。それによると,1000V回路で絶縁距離は4.5mm以上となっており規格上問題ありません。」と回答しました。
 なお,これはあくまでも部品単体の規格であり,例えば私が現役時代担当していた整流器ではJEC-2410(1998)半導体電力変換装置に準拠した製品設計を行っており,絶縁距離はJEM1334規格を採用していました。
 設計時代は,設計根拠を明確にするためいろんな規格
日本工業規格(JIS)
電気学会 電気規格調査会標準規格(JEC)
日本電機工業会標準規格(JEM)
電気設備技術基準
 を覚える必要があり,その他IECなどの海外規格もあるので大変でした。
2013年8月22日(木) やっと終わった?
 今日は昼から散髪に行き,その帰りに区役所によって家内から頼まれていた住民票を貰いに行きました。その交付費用は無料であり,意外でした。
 連日,記録的な猛暑が続いており,区役所から帰ってくると汗だくです。もう,お盆も過ぎて本来なら朝夕は涼しくなるのですが,今年は異常です。

 7月27日にBTOパソコンンの見積り依頼を行い,8月10日にそれが入荷して,3回もアプリのインストールを行う羽目に陥りながらも,2か月近くを要してやっとWindows8パソコンへの切り替えが終わりました。特に,BTOパソコンを入荷して,現在に至るまでの四苦八苦の様子を残すための記録作成に時間がかかりました。(年齢的にWindows8が最後のOSになる可能性があり,今後再インストール時に悩まないための記録です。)
 「こだわりのパソコン」だとWindows8をインストール済みのBTOパソコンを購入したのですが,BIOSの変更や古いアプリのインストールでトラブリ,どうしても15年近く使用していたデスクトップ画面が忘れられず,Windows8をカスタマイズしたのに時間がかかりました。お蔭で?Windows8パソコンと感じないようなパソコンに変身しましたが。
 メーカ製のパソコンなら何ら問題がないWindows8パソコンでしょうが,操作に慣れが必要と思います。自分自身は保守的でありWindows8環境がどうしても好きにならないのでカスタマイズしました。

 HPのトップ画面に,”Win8”と言うアイコンを追加して,Windows8の導入からの経緯をアップしました。これから,Windows8パソコンに変更されようとされている方,特にBTOパソコンに興味を持たれている方は,一度読んでみてください。そして,すべてを理解された方はボケが始まっていないと自慢できます。
 SSDを使用してSATAモードをAHCI変更すると,Windows8を快適に使用できます。画像処理を,高速で行いたい方にはお勧めです。
 画像は気分転換で行うカードゲーム”FreeCell”の勝利画面です。このゲームはWindows8のスタート画面内の”アプリ”から探してインストールする必要があります。探しにくかったです。
2013年8月19日(月) 失敗?
 相変わらず35℃以上猛暑日が続いています。今年の夏は本当に暑いです。(半袖で炎天下を歩いていると,暑い以上に痛く感じます。)今日は3週間ぶりにプールに行きました。5日は体調不良でプールに行かず,12日は実家に帰っていたのでプールに行けずでした。そして,8月に入ってから猛暑が続いており,散歩にも出かけることが出来ず,完全に運動不足です。散歩は,腎不全なので炎天下に出かけて沢山汗をかくと,尿の濃度が濃くなるのと腎臓に負担がかかるため医師から止められているのです。
 プールに出かけるので携帯電話を取ると電源が切れていました。切った覚えがないのですが,電源スイッチを入れると電池残量が(満充電は3)となっていました。土曜日の昼に充電したのですが,携帯も暑さで呆けたかと,そのまま携帯を持参して出かけました。
 プールへの電車の中で携帯の呼出音が鳴り,「誰だろう?」と画面を見るとからでした。通話のボタンを押した瞬間に,電池切れの警告が出て電源が切れてしまいました。また,がおかしくなったのではと,京橋駅の構内で公衆電話を探しますが見つかりません。構内にある薬局の店員に公衆電話の場所を聞いても,「判らないので駅員にでも聞いてください。」とのことです。携帯が普及した現在,公衆電話を探すのは大変です。やっと,自力で公衆電話を探して弟に電話を入れました。

 3週間ぶりのプールで恐る恐る体重計に乗ると8月に入って2kg体重が増えていました。5月初めからの体調不良で,体重が5kg減っていたのですが,また体重が戻りそうです。夏場は,運動不足で夏太りするのですが,5kg減った体重の方が楽なのですが。
 プールはいつものように,筋トレ,アクアビクス,水泳?,スチームサウナで2時間の滞在?です。スチームサウナで体を温めたので,表に出てもあまり暑いと感じませんでした。
 自宅に帰り,早速携帯の充電を行いました。どうやら,土曜日の充電時に携帯が完全に充電器に装着できておらず,充電出来ていなかったようです。

 このくそ暑い中で,大阪城に渡りが始まったようです。例年なら8月末ごろから野鳥撮影に出かけるのですが(目的は咲き残ったサルスベリに止まるコサメビタキの撮影。),今年は暑いので9月になって,涼しくなってからです。大泉緑地で早々とオオタカがやってきているよですが,この暑い中でカメラマンが熱中症で倒れて大変だったようです。大阪城,大泉緑地も増殖した?カメラマンが早々と詰めかけているのですね。でも,命がけで撮影する値打ちのある野鳥は居ないはずですが。
2013年8月15日(木) 今年も敗戦記念日が 
 8月15日には,この日記では毎年のように敗戦について好き勝手に書いています。2006年8月15日の”終戦記念日に思う”に書いたように,支那や朝鮮を嫌う原点はここにある。あまりにもひつこ過ぎるのである。そもそも,朝鮮の歴史は支那の植民地として始まっており,そこから脱したのは日清戦争で日本の勝利によるものであった。朝鮮が一番恨んでいいのは支那であり,日本に対しては感謝すべきであると思うが。

 いつも,韓国では「日本軍慰安婦」が反日キャンペーンの一大看板と化している。(以下は週刊誌の記事流用)
 韓国の学校の歴史の授業で慰安婦問題が取り上げられるのは,日本の植民地時代に入り「内鮮一体,国家総動員法の名のもとに朝鮮半島から物資や人材が搾取された」という文脈においてである。歴史教科書の中でもメジャーな『高等学校 韓国史』(志学社、2012年版)では,2ページにわたって記述が見られる。以下,慰安婦の定義が書かれた箇所を引用する。 
 「日本軍“慰安婦”とは,日帝植民地時代に日本軍の慰安所に連行されて強制的に性暴行を受けた女性たちを指す言葉である。日帝は日中戦争と太平洋戦争を行なうあいだ,日本の軍人たちの性的欲求を満たすために集団的な性行為施設である慰安所を制度化し,植民地と占領地にいる数多くの若い女性たちを強制的に戦線に輸送,性奴隷の役割を強要した。彼女たちは慰安所に配置され,繰り返し性暴行を受けていた」

 しかし,「強制連行」されたという証言は元慰安婦のものだけである。証拠も第三者の目撃証言もない。むしろ慰安婦を好条件で募集する新聞広告などが残っており,朝鮮人も慰安婦募集に関わっていた。そのような証言にどれほどの信憑性があるだろうか。それでも「強制」や「性奴隷」を連呼する教科書の記述は,元慰安婦たちを「反日戦士」に仕立て上げている。
 また,別の記事では,
 韓国では2004年に性売買特別法(それまで金銭パーティが有名であった。)が制定され,韓国内での売春が禁止された為,海外で売春をする韓国人女性が急増しています。
 しかし,その数があまりにも多く世界の各地で問題視されています。
 大きく成長しすぎた韓国売春市場の規模は,韓国内だけでもGDPの5%に相応する8兆7000億ウォン(現在のレートで7648億円)だそうで,海外に遠征する売春婦の8万人を加えるとそれ以上になります。そしてその8万人中5万人は日本に進出しているそうです。


 以上が売春立国とも言われている韓国の実態であり,「日本軍慰安婦」問題も捏造である証明かもしれません。

 今日はテレビで特攻隊についての放送があった。そこでは,特攻隊員の遺書が紹介されていた。
 会いたい,話したい,無性に。
 父さん,大事な父さん 母さん,大事な母さん 永い間、色々とお世話になりました。
 人生五十年,自分は二十歳迄長生きしました。残りの三十年は父母上に,半分づつさしあげます。
 清は微笑んで征きます。出撃の日も,そして永遠に。
 笑って散ってゆきます。お母さんも泣かずに喜んでください。
 人は一度は死するもの,悠久の大義に行きる光栄の日は今を残してありません。父母上様もこの私の為に喜んで下さい。
 お父さんの方が後になり変になりました。一足御先に失礼します。
 咲くもよし散るも又よし桜花
 人間一度は死するものなり,黒か白か二つの内一つなり。白き箱にて,帰りました暁にはどうぞ,花の一枝でも上げて下さい。
 父恋しと思はば,空を視よ,大空に浮ぶ白雲にのりて父は常に微笑で迎ふ。 
 今はもう全ての俗念も去って、すがすがしい気持ちです。
 あの時お母さんと歩いた思い出は極楽へ行ってからも、楽しいなつかしい思い出となる事でしょう。
 幸福のうちに轟沈を期す


 以上はアメリカ軍が一番恐れた,神風特攻隊の隊員が残した遺書の1部です。日本を守るため,家族を守るための崇高な精神で死出の旅に向かった特攻隊員に対して敬意を払います。私などは,絶対に無理な行動です。
 しかし,紹介されている遺書は特攻隊員を美化するものばかりで,本音の遺書は残されていないような気がします。
 死ぬのは嫌だ。お母ちゃん!死にたくない。    とかの本音の遺書もあっても良いのではと思います。(私なら)
2013年8月14日(水) 今年も
 今年も弟夫婦里帰りしたので,何が起こっても不思議でないを実家で一人にしておけないので泊りに帰りました。 

 11日大阪は37℃を越えた暑い日です,弟夫婦は早朝に家を出たようなので,私は13時前位に実家に帰りました。早速から「仏さんの花を花屋さんに頼んであるので,取りに行こうとしたら眩暈がして歩けない。貰いに行ってきて。」と言われました。花屋さんは自宅から50mほど離れており,50年以上前から店を開かれています。店に行ったついでに,「蓮の葉2枚と,花を長持ちさせる活性剤も買って来て。」と言われ,”初めてのお使い”のような,老人のお使いです。私が知っている以前の花屋は市場の中にあったとですが,市場はスーパーに変わっており花屋の店が判りません。母に電話して聞こうかと思っていたら,角を曲がったところにその店はありました。
 「**ですが。お願いしていた花と,蓮の葉を2枚,活性剤1本をください。」(よく忘れずに言えましたネ)と言うと,おばあさんが顔をだし,「以前見た顔ですね。お母さんによく似ています。」と言われたのですが,私が実家を出たのは40年ほど前であり,まったくこのおばあさんを覚えていません。因みに,自宅近所の人からは,「お父さんによく似ている。」と言われます。蓮の葉はお盆に帰ってきた父や祖父母への弁当を包むためです。我が家では,いつからか知りませんがこのような習慣が引き継がれています。お盆の仏さん用の花は1対で4000円と高いです,そして30cm程度の蓮の葉も1枚200円です。

 16時過ぎからは,またもや母から頼まれたお使いで仏さんにお供えする”メロン,リンゴ,ナシ,そしてフルーツトマト”を買いに出かけました。そして,物凄く暑かった!異常だ!!
 18時前に家内が実家に来た。5月に母と食事をした際に,母がアナゴ半身を使用した握り寿司が美味しいと言って食べたのを思い出し,今夏もそれを食べよう家内に買ってきてもらったのです。夕食は母と家内と私の3名でです。カニの酢の物の前菜と,アナゴ寿司(今回は大きなアナゴ寿司が売り切れていた),各種巻き寿司,イチジクや鶏肉が入った野菜サラダがメニューです。母は「アナゴ寿司が美味しい。こんなサラダは食べたことがない。」と喜んで,沢山食べてくれました。暑くなり,ますます食が細くなり,痩せてばかりの母が「久しぶりに沢山食べた。」と言ってくれました。
 あと何回,母が喜ぶ食事を一緒に摂れるのでしょうか。私は,いつもなら食べられないごちそうを沢山食べたので後が大変でした。非常に喉が渇くので,水分ばかり取ったのが起因して夜中にトイレにばかり行き,寝不足です。貧乏根性丸出しの私でした。

 12日は10時前から母を車椅子に座らせて近所の内科医院に連れていき,点滴を打って来ました。そして,夕方から近所の整骨院に予約を入れたのですが,間際になって母の体調がすぐれないのでキャンセルしました。夜には例年のように走馬灯を出して飾ります。

 13日はお盆です。お坊さんが11時ごろにお参りに来てくれることになっていたのですが,神経質の母はお盆の準備が気になってあまり眠れなかったようです。1年に1回,ご先祖が帰ってこられるので,花で飾ってごちそうを用意してお迎えします。(故郷では13日の夕方にお墓参りをして,ご先祖を家まで連れ帰るのです。)その用意が大変なようで,長男(父)の妻である母が,その準備を60年以上やってきたのでした。ひどい貧困時代もお盆のご先祖のお迎えは行っており,親戚に嫌味を言われながら借金をしていた。当時は,2人(私と弟)の授業料や給食費が無くて,これも借金して払っていたと初めて聞かされました。道理で,「中学を出たら鉄工所で働いて。」と言われていたことを思い出しました。
 11時前に弟の息子夫婦と,その子2名がお参りに来てくれてお坊さんを待ちます。11時丁度にお坊さんが来られ,読経は5分ほどで帰られました。お坊さんにとって,お盆は書き入れ時なのでしょう。因みに,我が家は月参りも行ってもらっており,通常はお布施が1万円で,お盆や彼岸には2万円と上得意?です。そして,数年前までは故郷の坊さんがお盆とお彼岸にお参りに来るので5万円ほど包んでいたそうですが,今は止めています。何しろ,ジャガーに乗ってお参りに来るのですから。
 私は*川家の長男であり,本来なら仏壇を引き継ぐべきであるが子供がおらず,私の代で終わってしまいます。従って,弟に仏壇を引き継いでもらう予定ですが,仏壇を継ぐということは毎日ごはん,水,塩をお供えして,月参りやお盆・お彼岸のお参りの準備やお布施で大変です。母が元気?な内は月参りを止めませんが,お布施は減額しないと。そして,母が亡くなれば,月参りは止めてもらいます。
 母はお盆の用意で疲れたのか,昼から寝込んでしまいました。昔ながらの,古い習慣を頑固なまでに継いでいる母は立派です。

 14日 朝から母を車椅子に乗せてスーパーに行きました。母はご先祖が明朝帰られるので,お弁当を用意したいのです。故郷では子芋飯を蓮の葉に包んでお弁当とするのですが,もうご飯を炊く元気もなくなっており,スーパーでは赤飯とお供え用のおかず(セットとして販売されている)を購入しました。
 その帰路で,12日に行けなかった整骨院に母を連れていき,治療が終われば携帯に連絡をもらうようにして一人で帰宅しました。11時前に整骨院から電話が入ったので車椅子で母を迎えに行きました。そして,昼食後に自宅に帰りました。それにしても,今年のお盆は異常に暑く気温の新記録が出続けました。地球がおかしくなった?
2013年8月8日 誤報だった
 朝からが実家近くの医院に行くと言っており,この暑い日に母を一人で行かすわけにいかないので9時過ぎに実家に帰りました。しかし,母は9時前にシルバーカーを押して医院に出かけたとのことなので,医院に行くと母はリハビリ中であり点滴が終わるのは10:40頃と言うことで「その頃迎えに来るは。」と私が言って,シルバーカーを押して実家に帰りました。
 今日は弟に4日の墓参時に撮影した弟家族の画像を2Lサイズに15枚ほど印刷していたので,それとDVDの画像データを渡しました。10:30になったので母を医院に迎えに行き,実家に戻ると弟の孫が来ており写真を見て喜んでいました。腐ったズームレンズで撮影した写真ですが,喜んでくれてよかった。

 12時前に実家を後にして自宅に帰りました。テレビを見ていると17時前にテレビに緊急地震速報と携帯にも速報メールが入りました。速報では「奈良県で地震発生 強い揺れに備えてください。」とのことだったので,家に閉じ込められないように慌てて玄関のドアーを開けに行きました。そして,どの程度の揺れが来るのかと身構えていたのですが,揺れません。やがて,テレビの画面では「和歌山県北部で地震発生。マグニチュードは2.3」とのことだったので,この警報だったのかと安堵しました。
 この警報により列車等の交通機関が停車してダイアに乱れが生じた。しかし,地震速報は誤報であることが判明した。

 その後,気象庁の会見で「予想は過大で,広範囲でご迷惑をかけた。誤報を深く肝に銘じておわびし,再発防止に努める」と謝罪した。また,「情報の信頼性を損ねた。技術の改善に努めるが,今回は実際に地震が発生している。今後も,速報が発表された場合は身の安全を確保してほしい」と軽視しないよう理解を求めた。これを受けて私は「今回の誤報に懲りず,大きな地震が予知された場合には警報を発して欲しい。」と感じました。何しろ,阪神大震災の時は,突然の大きな揺れにびっくりしたのですから,それが予知できるのはすごい技術的進歩です。
2013年8月4日 墓参り
 今日は2年ぶりお盆の墓参りに行きました。 朝7時過ぎに弟夫婦と武蔵(犬)が自宅まで迎えに来てくれて,途中で弟の子供夫婦と孫たち(弟の)と合流で2台の車で,総勢8名と1匹の墓参です。9時過ぎに奈良県吉野の山奥の村(高原)に到着しました。この日は薄曇りの日でしたが,爽やかな風が我々を出迎えてくれました

 過疎化が進んだ山奥の村では,お盆を控えて村人(お年寄り)が林道や墓に行く道の草刈りを行っていました。私は見知らぬ人だったのですが「お早うございます。ご苦労様です。」と挨拶をすると,「どこの人かいの?」(どこの家の人ですか)と懐かしい訛りで聞いてくれました。
 私は「**の長男です。」と答えると,父や母を知っておられた方で「**は元気ですか?」との質問だったので「**は7年ほど前に91歳で亡くなりましたが,母はまだ元気です。」と返答しました。この村では,**を知らない人が殆どなのですが,父母をご存知の方と出会えて良かった。

 墓参の後で孫達が網と虫かご持参で来ていて,「ミンミンゼミとキリギリスが欲しい。」と言い出したので,墓の周りを探したのですが見つかりません。私の子供の頃の虫取りと言えば”南朝さん”(御領)に毎日通っていたので,孫をそこに連れていきました。
 墓から懐かしい道を歩き,今は売ってしまった私の生家の側を通り”南朝さん”に行きました。そこで,弟と息子(孫の父)が必死に虫を探し,アブラゼミ(ミンミンゼミは鳴いていなかった)とキリギリスを捕まえました。

 今日は久しぶりに故郷の写真を撮ろうと,昨夜F2.8 28−75mmレンズ(唯一,我慢して使用できるタムロンのズームレンズ)を用意したつもりが,デジタル1眼を始めた時に最初に購入したタムロン28−200mmがバックに入っていました。このレンズの解像度の低さにあきれ返り,2〜3回使用しただけで仕舞い込んでいたのですが。その後,野鳥撮影を初めて,懲りずに500mmのズームレンズを購入して,1週間後に売り払ってから望遠ズームレンズをぼろ糞に書くようになったのです。(特にサードパーティ製はレンズではないと!
 今日は仕方ないので,150mm以上の望遠域を使用せず我慢して撮影しましたが,今更ながら酷いレンズです。やはり,レンズは単焦点です。
2013年8月2日 ネットワーク接続不可
 通常パソコンは昼食(パンorおにぎり)前にメールやインターネットを見るために立ち上げます。今日もスイッチを入れるとWindows8のスタート画面の前に”共有ファイル・・・・”のコメントが表示されたので,何だろうと読もうとしているうちに通常のデスクトップ画面になってしまった。すぐに,メールアプリを立ち上げるとエラーメッセージが出てメール接続できません。ネットワーク異常かと,次にインターネットを立ち上げるとエラーメッセージが出て”接続の問題を修正”のアイコンがあるのでクリックするとネットワーク診断が始まりました。
 そして,診断結果は”問題を特定できませんでした”とのことなので自力で原因を探すしか手段がありません。Windows8は不安定だなと思いながら,ネット接続状態を確認するためコントロールパネルネットワークと共有センターイーサネットを選択して,詳細画面で”ネットワーク接続の詳細”(画像)を表示させてIPアドレスが取得されているのを確認しました。「このアドレスが正常か?」と疑いつつも,イーサネットアイコンを右クリックして”ローカルエリア接続を無効”にして,次に再び”有効”にセットしたのですがネット接続ができません。

 そろそろ頭に来始めたので,IPアドレスを再取得してやろうとコマンドプロンプトから"ipconfig/release"でIPアドレスを開放して,次に"ipconfig/renew"を実行してIPアドレスを再取得した後にネット接続を試みたのですが接続できません。接続の確認はルータのアクセスランプの点灯数(正常ならば4灯点灯)でも行っているのですが3灯しか点灯しません。ネット接続できない原因は,(1)Windows8の異常,(2)ネットワーク回線の異常,(3)ルータの異常が考えられました。
 (1)の確認はXpパソコンを立ち上げれば判るのですが接続変更が面倒くさくなり,プロバイダー(ZAQ)に電話して回線が正常なのか聞いてみようと”ZAQお客様センタ−”に電話を入れると番号が変更になっており繋がりません。ネット接続が不可能なためネットで調べることができず,回線不良ならしばらく時間を置けば治っているだろうとパソコンを切りました。

 15時になったので,再びパソコンを立ち上げてメールを確認すると,やはりエラーは治っていません。仕方がないので,Windows8を疑うことにしてXpパソコンに接続替えをしました。そして,Xpパソコンを立ち上げるとメールやインターネットはエラー表示が出たので,原因は(2),(3)の可能性が大となりました。しかし,これを確認する方法が無く困って考えました。そうだ,我が家はケーブルテレビ(J:COM)なので11チャンネル(J:COMチャンネル)のデータ放送で何らかの情報が出ていないかとテレビをつけると,緊急情報として”大阪セントラルエリアの1部お客様におきましてJ:COM NETサービス等がご利用いただけない状態となっています。・・・復旧まで今しばらくおまちいただきますようお願い申し上げます”となっていました。

 何だ!NET回線不良かと,何時この記事が出たのかと見ると,2013年8月2日だけで不良発生時間の表示がありません。”しばらくお待ちください”のしばらくは,長くても1時間ですよ。この日記を作成中の20:05現在復旧していません。記事の作成時間を表示しなかったのは,”しばらく”の時間を本日の24時まで伸ばしたかったからの,頭の良い記事だと判断したのは馬鹿でしょうか?
 J:COM(ZAQ)のメールやNETを商用で利用されている方にとって,長時間回線不通になるということは損害賠償の対象ですね。私は,いろんな検討を行い精神的に疲れました。何しろ,Windows8環境の使用時間は短く,勝手にアップデートするOSを疑っていましたから。
2013年8月1日 闘病日記? 
 今日は都島の総合医療センターでの診察日です。朝から今にも泣きだしそうな曇り空でしたが歩くのが嫌なので自転車で病院まで行きました。到着は9:10頃でしたが,9時半ごろからすごい雨降りとなり,間一髪セーフでした。
 9:30から泌尿器科,10:00から腎臓内科の予約を入れていたので,早速受付を済ませて2Fの待合室に行きました。泌尿器科の担当医は先日の叔母の葬儀でもお会いしたS医師(25年以上お世話になっています。)であり,直ぐに診察待合室の前で待つようにの表示(モニターに受付番号で表示される。)が出ました。いつもなら,直ぐに特別診察室に呼ばれるのですが,今日は所要があったのか9:35に呼ばれました。
 S医師から「2009年9月の血液検査でクレアチニン(Cre)が3.17と3を越えてから4年間悪くなっていなく,普通は夏場にCreが上昇するのですが先日の検査結果では3.04と高くなっていません。この調子で食事制限を頑張ってもらうと人工透析に至りません。」との話です。夏場に弱い私は,暑い中に出かけることが殆どなく腎臓に負担をかけないからでしょう。
 私は,5月12日に急に悪寒がして,前立腺が急に腫れて排尿困難になったこと,舳倉島遠征で両足のくるぶしが痛くなりほとんど歩けなかったこと,そして遠征から帰った後も体調が悪く足が痛かったことをS医師に説明しました。すると,S医師は昨年年末に撮影した腎臓のCT画像を見られ,「これが足の動脈ですが動脈硬化はほとんど見られません。くるぶし痛は外科的要因でしょう。」また,「尿酸値が低くても痛風となる場合があるので,足が痛いのはそれが原因かもしれません。」とのことでした。その他,いろんな話をして9;45に診察室を出ました。どうも最近左足首および指の疼痛・しびれや右膝痛がつらいので整形外科に行ってみないと。因みに,4月ごろ頻繁に通っていた整形外科医院のリハビリは低周波と超音波治療だけなので止めて,同じような治療も含めて整骨院の方が気持ちが良いので,そちらに通っています。

 腎臓内科の待合室は1Fなので下に降りて,モニター画面に私の受付番号が出るのを待ちます。10:10にやっと番号が出たので,診察室の前で待っていると10:35に診察室に通されました。担当医はI医師(内科部長)なのですが,親切なのかいつも30分は待たされます。医師からはいつものように「腎臓は悪いなりに安定しています。この状態を維持してください。」との話が主で,代わり映えしません。ここ2か月ほどで体調の大きな変化もないので10分足らずで診察は終了です。

 病院で会計を済ませ,薬局で薬をもらって帰宅したのは11:45でした。(雨は止んでいて,蒸し暑かった。)

 夕方からは近所の眼科医院に行って定期健診(3か月ごとの眼底検査)です。検査結果は「眼底出血もなく綺麗です。」とのことでしたが,最近は疲れ目がひどく年齢による劣化なのでしょうね。

 いつもの,闘病日記でした。